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大東亜戦争史(太平洋戦争史) |
| アメリカの日本制圧プラン | 戦争原因 | 東京裁判 | 倉林和雄 | 小堀桂一郎 | 櫻井よし子 | 前野 徹 | 岡本行夫 | 瀬島龍三 | 加藤三之輔 | 中西輝政 | 海音寺潮五郎 |
| ベン・アミー・シロニー | 岡崎久彦 | 金子 甫 | 福地 惇 | トルーマン | ハル・ノート | 蓑原俊洋 | ルーズベルト | 真珠湾攻撃の真実 | カイロ合意 | 大東亜宣言 | バンドン10原則 | 真中行造 |
| ●昭和天皇 「大東亜戦争の遠因を考えれば、それはアメリカの『対日移民政策』であり、近因を考えればアメリカの『石油禁輸』である」 |
| GHQの民間情報教育局(CIE)の”ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム”は”戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画”であった。”太平洋戦争史”はまず新聞を通じて開始された。その前書きは以下の通り。「日本の軍国主義が国民に対して犯した罪は枚挙に遑が無いほどであるが、そのうち幾分かは既に公表されているものの、その多くは、未だ白日の下に曝されておらず、時のたつに従って次々に動かすことの出来ぬ明瞭な資料によって発表されて行くことになろう。これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取扱い等であるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為の中で最も重大な結果をもたらしたものは”真実の隠蔽”であろう。(中略)今や日本国民は今次戦争の完全なる歴史を知ることは絶対に必要である。日本国民はこれによって如何に敗れたか、又何故に軍国主義によってかかる悲惨な目に遭わねばならぬかを理解することが出来よう。これによってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建するための知識と気力とを持ちえるのである。かかる観点から米軍司令部当局は日本及び日本国民を今日の運命に導いた事件を取扱った特別記事を提供するものである。その後従来の”国史の教科書”の使用を禁じて、新たな教材としてこの”太平洋戦争史”を使用することを強制した」。 実際には”日米の国家間の対立が先の戦争の原因”であるにも拘らず、”日本の軍国主義者と国民との対立の図式”によって戦争の原因を分析している。”反日日本人”はこんな簡単な”アメリカのごまかし”に今でも気付かないのだ。軍国主義者と国民の対立という”架空の図式”を導入することによって、国民に対する罪を犯したのも、現在及び将来の日本の苦難と窮乏も、”全て軍国主義者の責任”であって”米国には何らの責任もない”という論理を展開した訳だ。大都市の”無差別爆撃”も、”広島・長崎への原爆投下”も軍国主義者が悪かったから起こったのであって、”アメリカは少しも悪いところがない”と言いたいのである。まともな書物を読めば今ではこんな理屈に騙される訳が無いのだけれど、”反日日本人はアメリカに完全に騙されているのに気付かない”。 |
| アメリカの日本制圧プランについて(渡部 昇一 上智大学教授の見解) <1890年(明治23年)−フロンティアの消滅宣言> ・以降アジアへの進出に眼を向けるきっかけとなった。 <1902年(明治35年ー日英同盟> 日英同盟が締結されていた時期は日本にとってもイギリスにとっても史上最高に幸せな時期であったのは事実である。 <1904年ーアメリカで排日のムード(人種差別)始まる> 多数のシナ人は虐殺されているが、日本人は合法的に締め出す手段を使うことによって、州単位で次々と排日移民法を成立させていった。 <1905年(明治38年)−日露戦争> ・日本の勝利 <1905年(明治38年)−ハリマン構想>(谷沢 永一文学博士の見解) ”日米・満鉄共同経営計画”のことである。日本は、いっぺんは内諾したが、時の外務大臣 小村寿太郎の猛反対で潰れる。もしこれが進行していれば、アメリカは反日の戦いの準備をする必要などは全くなく、そして日米戦争はもちろんなく、日本とアメリカは手を組んで友好関係を保つことが出来たといわれている。 小村寿太郎の清貧すぎる秀才=貧乏だからお金のことが体感的にわからない。経済、商売の根本原理は相互利益である。商売の原則は“利益を独り占めするなということ”にある、これが理解できなかった。面子=外務大臣の自分がいない間に勝手に決められたということでハリマンとの話が潰れた。この後、アメリカはオレンジ計画、日系人いじめと排日という“人種差別政策”を取ってゆきだす。 <1906年(明治39年)ーオレンジ計画(日本がアメリカの第一仮想敵国になる)> ・アメリカのアジアにおける領土拡大の野心に日本が邪魔になってくる。 (第一段階)アジア南部、西部の石油・重工業原料を日本が確保する。米海軍は母港に集結しているため日本の攻略を阻止できない。 (第二段階)アメリカは次第に消耗戦に勝利を収めるようになり、2〜3年後にフィリピンの基地を奪回する。 (第三段階)アメリカは沖縄を占領する。日本本土の生産施設と都市を空爆によって破壊する。 <1908(明治41)年ー 日米紳士協定の成立> 以後、日本は移民者をアメリカに出さないことを約束し、その代わりすでに移住している日本人が、それ以上に迫害されないように求めた。 <1914年〜1918年ー第一次世界大戦> 第一次大戦ではドイツが強くてイギリス、フランスが危なかった。それでイギリスは日本にしきりに参戦を求めるが、日英同盟というのは及ぶ範囲がインドまでと決まっていた。しかし困っているのだから海軍は出しましょうということで、海軍は地中海まで行って非常によく働いた。これは感謝されたが、陸軍は送らなかった。 ところがアメリカは、イギリスとの同盟はなかったけれど大軍を送り、連合軍がそれで勝った。戦後の世界の情勢を見ると、国際的に発言力のある国がアメリカ、イギリス、フランス、日本の4つになっていた。そしてヨーロッパに残った強国はイギリスとフランスだが、この二つは徹底的にアメリカの恩恵を受けた。だからこの二国はアメリカの言うことを何でも聞くようになる。アメリカはイギリスに対して日英同盟の解消を迫り、フランスも抱きこんで日英同盟を潰し、その代案として日・英・仏・米の四国協定を成立させた。 四国協定が形ばかりで何の実効もないのはいうまでもない。しかも実態は”日本対欧米の対立”です。⇒助けるべき時には、助けるべきである。 <1921年(大正10年)−日英同盟解消> <1924年(大正13年ー絶対的排日移民法> 州レベルであった排日移民法(日本人移民は一人たりとも許可しない)が国レベルで制定された。日本国内では反米・嫌米のムードが高まり、しだいに国粋主義的なナショナリズムに傾斜していった。⇒やり方がえげつないのが中米。 <1930年(昭和5年)=ホーリー・スムート法> 1929年、アメリカ国内産業の保護を名目に千品目にも及ぶ輸入商品に超高率関税をかける法律を議会に提出。株価の大暴落。世界不況に突入。にも拘らず1930年に成立させてしまう。アメリカが自由貿易体制から離脱したのを受けてイギリスも同様の道を歩みはじめる。⇒無茶苦茶である。 <1932年(昭和7年)=オタワ会議> 大英帝国(イギリス、カナダ、アイルランド、オーストラリア、ニュージランド、インド、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、南ローデシア)内での商品や原材料の流通は無関税か特恵関税にするが、大英帝国外から入ってくるものには高率の関税をかけて事実上阻止してしまうというもの。 上記9邦に加え、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、香港、エジプトなどの植民地、さらにイギリスの支配下にあった中近東の産油国も影響下に入ることになる。こんな世界的な規模で貿易から締め出された日本は、一体どうすればいいのか。 しかし日本経済はまだ驚異的な頑張りを見せて、昭和12年までは着実に伸びていった。ところが、アメリカやイギリスやソ連は、日華事変の拡大に絡んでシナに働きかけ、排日、反日と、ありとあらゆる工作をし、シナに抵抗させます。日本の大陸での利権を奪おうと活動していた。さらにABCD包囲網で石油などの戦略物資がまったく入ってこなくなっていた。ここまで追い込まれたらいかに優秀な政治家でも実業家でも万事休す。手の打ちようがない。今で言う徹底的な”イジメ”のようなものである。 <1939(昭和14)年7月=アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告>⇒この段階で宣戦布告である。 <1939(昭和14)年10月=アメリカ大使が条約の締結を拒否。翌年失効> <1939(昭和14)年11月=インドネシア半島支援ルートの遮断> <1940(昭和15)年=ABCD包囲網> ・軍需物質は無論、生活必需品の日本への禁輸措置を課してきた。 ・北部仏印(インドシナ半島)へ駐留の開始 ・アメリカは日本に対するくず鉄と鉄鋼の禁輸措置 ・日独伊三国条約 <1941(昭和16)年=在米資産の凍結> ・1941年7月 アメリカ、イギリス、オランダが自国内にある日本資産の凍結、通商航海条約の一方的破棄を通告。 <1941(昭和16)年=石油の全面禁輸> ・1941年8月 アメリカが日本に対しての石油輸出を全面ストップ。 <1941(昭和16)年=ハル・ノート> ・1941年11月26日 シナやインドシナから日本軍を即時無条件撤退させて日独伊三国同盟を破棄せよという、それまでの日米交渉の経過を無視した、唐突で無茶な要求としか言いようのない「ハル・ノート」をつきつけられる。 <1941年12月8日ー日米開戦> 相手はとっくに35年前から、着々と戦争の準備をしていたのだ。日本がアメリカの真珠湾を攻撃したから、アメリカが立ち上がったなどという代物ではないことがわかる。東京裁判でもインドのパール判事は、アメリカの歴史家の言葉を引用して、「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコ公国やルクセンブルグ大公国といった、極小国でもアメリカにホコを取って立ちあがっただろう」とまで言わしめるアメリカのやり方である。ハル・ノートをアメリカにあてはめると、「アメリカは、ハワイは当然のこと、西部のカリフォルニアや、ニューメキシコ、テキサスなどもメキシコに返して、東部13州に戻りなさい」ということである。アメリカは受け入れられますか?受け入れられる訳がない。 |
| 須藤眞志 京都産業大学教授 諸君 平成15年7月号 (ハル・ノート悪人説の原点) 1.中国および仏印から一切の軍隊・警察を撤収すること=満州国の放棄と解釈した。全支那という言葉は全くなかった。 2.重慶政府のみの承認=南京政府の否認。南京政権の脆弱さは日本も成立当初から十分に分かっていた。それゆえ両政権の統合について日米で話し合うことは可能であった。そのことで日米間で協議がされてもなんら問題はなかった。 3.日独伊三国同盟を太平洋地域に適用しないこと=三国同盟の否認。第三次近衛内閣のとき、豊田貞次郎外相は、日米交渉推進のために、ドイツとの関係を稀薄にして、実質的には三国同盟は形骸化しつつあったのである。三国同盟は第二次大戦中も、結局日本にはプラスのことは何ももたらさず、ヒトラーと手を結んでいることは日本もその同類と位置つけられて、世界の悪役の役割しかなかった。歴史的にみれば、三国同盟は外交的には全く不必要な存在であった。 (ハル・ノートの内容ー経済面) ・最恵国待遇による通商条約 ・資産凍結の廃止 ・円弗為替の安定 日本がかねがね望んでいた、アメリカによる経済封鎖を解除する項目も含んでおり、経済的には日本に有利な条件もあった。 日本は日米開戦を11月5日の御前会議で事実上決定していたのであり、アメリカ側は時期こそ断定できないが、ルーズベルトの胸中には、7月の日本による南部仏印進駐のころから、戦争をもって打倒すべき敵として日本を認識したいたのではないかと思える。 とすれば、11月の下旬には日米双方とも戦わざるを得ない状況にあったので、ハル・ノートはその切っ掛けとなった通告の一つに過ぎなかったといえよう。 ハル・ノートを叩き台にして交渉を続行してもよかったのではないかという意見も戦後出てきたが、すでに機動部隊が出航した後なので、それはとても無理であったろう。⇒イラクに圧力をかけるために米国が軍隊を展開した段階で“イラク戦争”は不可避だったのだ。 ---------------------------------------------------------------- 「井尻千男 拓植大学日本文化研究所所長(産経新聞)」 戦って敗れることと、戦わずして屈服することの間には、天と地ほどの差がある。「和平」を選んで服従した場合、その悔恨と怨みはほぼ永遠に晴れない。近隣諸国の戦後史を見れば察しがつくだろう。逆に国家の尊厳を守って決然として「戦争」に赴けば、たとえ敗れたといえども、国家再興の時は必ず訪れる。世界史を見れば、その差は歴然としている。 米国が日本に突きつけた「ハル・ノート」を頂点とするさまざまな対日政策は、そういう種類の決断を日本に迫るものだった。 文壇一の紳士といわれた温厚な伊藤整にして、開戦の日の記録に迷いはない。 「12月8日の昼、私は家から出て、電車道へ出る途中で対英米の宣戦布告とハワイ空襲のラジオニュースを聞き、そのラジオの音の洩れる家の前に立ちどまっているうちに、身体の奥底から一挙に自分が新しいものになったような感動を受けた」 「ハル・ノート」が手交されたのは昭和16年11月26日だから、温厚な紳士を決然とさせた理由はそれ以前の米国の理不尽な対日政策にあったとせねばならない。そのいくつかを確認しょう。 1939(昭和14)年7月、米国は一方的に日米通商航海条約の廃棄を通告。41年7月、在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面的禁止措置。 多くの歴史書は米国の対日政策の硬化の理由として日本軍の仏印進駐(1940年)を強調する。あたかも日本軍が無法に侵略したが如くの語り口で。だが正確にいえば日仏両国の軍事協定によって進駐したのである。 第二次大戦が始まるや、フランスはあっけなくドイツに降伏し、南仏に対独協調のビシー政権をつくって、かろうじて独立国の体面を保った。連合国側は認めなくても、枢軸国からすれば主権国家である。フランス人はいまだにビシー政権時代を「暗黒の4年間」として語ろうとしない。けれども日本の歴史書がいつまでもビシー政府との協定によって合法的に仏印に進駐したのだと書かないのはいかにもおかしい。 また日本軍がまずもって北部仏印に進駐した理由も正確に書かねばフェアでない。南京陥落(1937年)直前に蒋介石政権は揚子江をさかのぼって重慶に遷都した。米英両国は開戦以前からベトナム、ビルマ(英領、現ミャンマー)、インド(英領)などから越境して武器弾薬などを重慶に輸送し日本軍を苦しめていた。その「援蒋ルート」を遮断するために、日本軍はまず北部仏印に進駐したのである。 こうして最後通牒なる「ハル・ノート」に至るのだが、ここにそのポイントを列記する。@日本政府は支那および印度から一切の陸海空軍兵力および警察力を撤収すべしA日本政府は重慶の蒋介石政権以外のいかなる政権も支持してはならない(つまり南京の親日的な汪兆銘政権を支援してはならない)B日本政府は外国租界及び居留地内の諸権益と、1901年(義和団事件=北清事変)以降に得た一切の治外法権を放棄すべしC日独伊三国同盟を死文化せよーなど10項目におよぶ。米国は日本に日露戦争以前の日本に戻れをいうのである。 近年、1930−40年代のホワイトハウスにおけるソ連のスパイ工作の実態が次々と明らかになり、「ハル・ノート」もその一つだったことが明らかになった。 ルーズベルトのライバルと目されていた下院議員H・フィッシュは、大統領の対日宣戦を議会に求める演説を熱烈に支持したのだが、後日、「ハル・ノート」の存在を知るに及んで、それを「恥ずべき最後通牒」と批判した。「これでは日本には自殺するか、降伏するか、さもなくば戦うか、という選択しか残されていなかったはずだ」と。 平和主義者がそれでも戦うなというか。国家の尊厳などにこだわるなというか。もし日本が「ハル・ノート」をのんで屈服したら、日本が日露戦争以前に戻るだけではない。今日のアジア諸国も19世紀のままだろう。 ------------------------------------------------------------------------- 「牛村 圭 国際日本文化研究センター助教授 諸君10月号 平成17年度」 「勝算のない戦争に導いた」とは、さきの大戦に言及するさい、多くの論者が用いる表現であり、一般読者の投書にももちろん散見される。だが、これでは勝算のある戦争に導くのは許容できるが、勝算のない「無謀な戦争」は不可である、という道徳論の展開と表裏一体である。「勝算のない戦争に導いた」と切り捨てる前に、たとえば、開戦を阻止しょうと命がけで努めた東條内閣の外務大臣、東郷茂徳の以下の言葉を明記する必要があると思う。 戦後、「『ハル・ノート」を受諾出来なかった筈はない」という非難が東郷に浴びせられた。そういう批判を「戦争による被害がなかった丈有利ではなかったかとの考えがあるかも知れぬが、これは一国の名誉も権威も忘れた考え方であるので論外である」と獄中で記した手記『時代の一面」で喝破した。平和の時代の倫理観で歴史を解釈しては、歴史理解は深まらないのではと危惧する。過去の戦争を考えるさいは、倫理の前に論理、さらに国威といった要素をも勘案する必要があることを、「A級戦犯」とされ今では靖国に合祀されている東郷茂徳が、未来向けて諭していると読める一節でもある。 |
いわゆるハル=ノート (1941年11月27日来電、第1192号、1193号) 合衆国及び日本国間協定の基礎概略 第1項 政策に関する相互宣言案 合衆国政府及び日本政府は共に太平洋の平和を欲し其の国策は太平洋地域全般に亙(わた)る永続的且つ広汎なる平和を目的とし、両国は右地域に於いて何等領土的企図を有せず、他国を脅威し又は隣接国に対し侵略的に武力を行使するの意図なく又その国策に於いては相互間及び一切の他国政府との間の関係の基礎たる左記根本諸原則を積極的に支持し且つ之を実際的に適用すべき旨宣明す。
日本国政府及び合衆国政府は慢性的政治不安定の根絶、頻繁なる経済的崩壊の防止及び平和の基礎設定の為め、相互間並びに他国家及び他国民との間の経済関係に於いて左記諸原則を積極的に支持し、且つ実際的に適用すべきことを合意せり
第2項 合衆国政府及び日本国政府の採るべき措置 合衆国政府及び日本国政府は左記の如き措置を採ることを提案す
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| 「戦争の原因」 渡部 昇一 上智大名誉教授 ・戦前のアメリカが、アイルランドやポーランドやイタリアやギリシャからの移民を認めたように、日本にも移民を認めてくれたらーあるいはその百分の一の数でも認めてくれていたらー戦争は絶対に起きなかっただろう。日本の大陸政策もアメリカ(ハリマン計画)と歩調を合わせることができたであろう。 ・日本は第一次大戦の結果作られた国際連盟の規約に「国家が皮膚の色によって差別されることのないようにする」という趣旨の項目を入れることを提案したが、アメリカ大統領ウイルソンが議長になってこの提案を否決した。票数でいえば日本案への賛成が多かったが、ウイルソンは多数決を排して、全会一致を主張したのである(それまで多数決で決めたこともあるし、国際連盟の所在地をジュネーブに決めたのも多数決だったにも拘らずである)。日本人の移民を一人も入れないというアメリカの反日政策がアメリカ議会で決められると、アメリカとの協調は難しいと日本人は考えるようになったことは確かである。しかし、これだけでは戦争に発火しない。あくまで遠因である。 ・近因は、“日本に石油を売らないということが決定された”からである。自給自足経済(アウタルキー)国家がそれぞれブロック経済に入ったらどうなる。非アウタルキー国家は、アップアップしてしまう。ブロック経済と言っても、高い関税ですんでいるうちは何とか工夫の余地はある。しかし近代産業に必要な物資を一切売らないと言われたら非アウタルキー国家はどうなる。これこそ戦前の日本人を常に悪夢のように悩ませてきた問題である。 (参考)1919年のベルサイユ条約とは フランスの首相クレマンソーがリードした第一次大戦の終戦処理条約である。あまりにも過酷なドイツに対する賠償金と、ラインライトに一兵たりとも入れてはならないとか、軍隊をもってはいけないなどと、考えられる限りのありとあらゆる束縛をドイツに加えた。イギリス大蔵省から派遣された経済学者・ケインズは、使節の一人という立場なのに、この条約が通ったら第二次大戦は必ず起こると言って、猛烈に反対。しかし聞き入れられず、辞表を叩きつけて、ロンドンに帰ってしまう。第二次世界大戦を史上最初に予言したのは、ケインズである。 (参考)ヒットラー イギリスがブロック経済に入った二年後の1934年(昭和9年)、政権の座につく。 最初にやったのは、賠償金の支払拒否宣言、次はドイツ民族の生存権のための生活圏の必要性の主張である。アメリカやイギリスがその気なら、こちらも自給自足のためには黙って手をこまねいたいるわけにはいかないと、戦争への準備にひた走りに走り出した。⇒日本だって中共にしめつけられたらこうなるぞ。 |
| 「新田 均 皇學館大學教授 正論9月号 平成17年度」 1.1917(大正6)年のロシア革命の結果、日本の隣にソビエト連邦という巨大な共産主義国家が出現し、その思想を輸出して他国に革命を起そうとし始めたことです。日露戦争に勝利して満州からロシアを追い出し、暫く一息ついたのも束の間、日本は、武力、警察力、思想力を駆使してソビエトと対峙しなければならなくなってしまったのです。そのため、共産ゲリラから権益と居留民を守るために満州その他の外地で武力を用いたり、共産主義が日本国民の中に忍び込まないようにするために、警察力を用いて思想の自由を制限したり、伝統的思想を誇張して国民に鼓吹したりしなければならなくなってしまったわけです。この対策は、今から考えても致し方ないと思います。何しろ、第一次と第二次の両世界大戦を合わせた死者が約6千万人に対して、共産革命の犠牲者は全世界で約一億人にも達するとも言われているのです。アメリカでは、大東亜戦争開戦時のルーズベルト政権内部にソ連の意を受けたスパイや工作員が大量に入り込み、政権の対日政策に重大な影響を与えていたことも明らかになってきています。 2.第二次大戦の後に、「総力戦思想」が日本に輸入され、特に陸軍の中に広まっていったことです。「総力戦思想」というのは、これからの戦争は、軍隊が強いだけではダメで、政治、経済、思想など国家の保有するあらゆる能力を戦争に向けて全面的に、そして効率的に動員しなければならないというものです。このような思想に染まった軍人たちは、自分たちが政治や教育をコントロールしなければならないと考えるようになりました。最早、「世論に惑わず、政治に拘らず」と説く「軍人勅諭」(明治15年)の枠内にはとどまっていられないと考えるようになったわけです。こうして、軍部の政治や教育への介入が次第に露骨になって行ったのです。 3.「経済ブロック」の思想です。昭和4年に世界恐慌が発生すると、欧米各国は自らの生残りのため自由貿易を放棄してブロック経済圏を設定しはじめました。広大な領土を有するアメリカは、昭和5年6月にホーリイ・スムート法という高関税法を制定して自国の中に閉じこもり、地球の約四分の一を支配していたイギリスも昭和7年に、特恵関税同盟によるブロック経済に移行しました。このような国際情勢に直面して、日本国内でもアジアに日本主導の経済圏を設定しなければ生き残れないとの考えが強まっていったわけです。 満州事変勃発当時駐華公使だった重光葵の報告書には次のようにあります。 「日本人は人間として至る所門戸を閉鎖せられ居るのみならず、その生活繁栄の為生産する貨物は「第一次世界」大戦後、世界至る処国際連盟規約の主旨に反して設定されれたる関税障壁に依りてこれまた門戸を閉鎖せらるるに至れり」(服部龍二編著『満州事変と重光葵駐華公使報告書』日本図書センター) 昭和9年12月、当時貴族院議長であった近衛文麿も『月刊維新』という雑誌に発表した「国家主義の再現」という論文の中で次のように書いています。 「日本も叉、欧州大戦後に世界を風靡した国際主義、協調主義に没頭して、パリ会議以来、彼等のいうところに従い、領土の現状維持は承認してきたのであるが、併しそれは、人間の移住、貨物の輸出入に関しては自由な世界の来ることを条件としてであった。/然るに事実においては、彼らは本国においても、また有色人種の世界たるべき東洋の領土においても、日本人は固より、有色人種は総て排斥し、貿易の如きもまた、彼等の門戸は尽く閉ざして、極東に対してのみ、機会均等、門戸開放をし切りに要求しているのである」 近衛は、昭和13年6月に首相に就任すると、翌年11月「東亜新秩序建設声明」を出して「この新秩序の建設は、日満支三国相携え、政治、経済、文化等各般に亘り、互助連環の関係を樹立するを以って根幹とし、東亜における国際正義の確立、共同防衛の達成、新文化の創造、経済統合の実現を期するにあり」と宣言した。 さらに、昭和15年に再び首相に就任すると、その7月に「基本国策要綱」を発表して、「皇国の国是は、八紘を一宇とする肇国の大精神に基づき、世界平和の確立を将来することを以って根本とし、先ず皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする、大東亜の新秩序を建設するにあり」と述べています。 このように、世界の経済ブロック化に対応して、アジアに独自の経済ブロックを築こうとする日本と、自らの経済ブロックはしっかりと維持しながら、アジアにおいてのみ機会均等を要求するアメリカとが、日中戦争の処理をめぐって対立を深め、ついに日米戦争の勃発へと至ってしまったわけです。 4.戦前の日本が人口過剰に悩まされていたということです。明治維新の頃三千万人だった日本の人口は、昭和の初期には約六千万人と倍増していました。国土も狭く、資源も乏しい日本は、過剰な人口のはけ口を海外に求めざるを得ませんでした。その日本の移民を、ヨーロッパからの移民は受け入れながら、人種差別的に禁止する「絶対的対日移民禁止法」(大正13年)をアメリカが成立させたこと、そうやって日本移民をアメリカから排除しながら、中国大陸については門戸開放・機会均等をずうずうしく主張したこと、治安維持もままならない危険な中国大陸に日本移民がいかざるを得ない状態にしておきながら、中国の主権尊重という美名の下にアメリカが日本の治安維持行動を妨げつづけたこと、こうしたことが日本人の対米感情を悪化させていきました。 |
| 東京裁判について(渡部 昇一 上智大学教授の見解) 戦勝国による”集団リンチ”だと言われている。 ・判事も検察官もすべて連合国軍 ・犯人は中共軍とわかっていたから封印された「盧溝橋事件」 すでに日本は国際条約で駐留も軍事演習もその権利も認められていた。 ・シナ保安隊による日本人260人虐殺の”1937年の通州事件(昭和12年7月29日)”を今の日本人は知らない 民間人を殺戮の対象にしている。明らかに国際法違反である。日本だけが一方的に悪者であり、シナに対しても謀略を計り、攻撃を仕掛け、侵略を続けた、とする見方がいかに悪意をもって作られたか、このことだけでも納得できると思う。 ・第二次上海事件(1937年8月13日)、蒋介石の戦闘行為で上海の日本人が危険に曝されたのが事実である。 ・シナ事変 シナ事変が始まる前から、日本海軍は上海付近に駐留していた。ドイツ、イギリス、フランスなど、それぞれの既得権益を守るべく疎開地に派遣されている各国軍と同じに、日本の企業・民間人を保護するためです。日本を含めて8カ国もの軍隊がシナに駐留中でした。けっして占領や侵略ではない。警備・保護が目的ですから、この日本海軍の駐屯陸戦隊はわずかな人員でした。どう見ても圧倒的に不利な状況だった。小数の海軍の陸戦隊が20万を越える国民政府の正規軍にみずから攻撃をしかけることはない。 蒋介石は、国際租界地・上海の外へ通じる道路をすべて封鎖して、少数の日本軍とともに居留外国人、シナ市民を閉じ込めた。明かに民間人が利用するホテルや避難所などに爆撃を加えた。日本海軍の駐屯陸戦隊は、地上戦の本格的な武装も訓練も受けていない、警備を主任務とする軍隊である。いやおうなく陸軍の派兵を求めました。しかし、任務はあくまで「帝国臣民を保護すべし」だった。 こうして中国軍によって仕掛けられ、20万の国民政府軍がわずかな日本海軍陸戦隊に押し寄せてきたのが、上海方面におけるシナ事変という戦争の勃発である。 だから、シナ事変に対して日本人は不当な罪悪感など持つ必要はない。とにかく始めたのは向こうが始めたのだから、これは、絶対に言いつづけなければならない。 ・日本がなければ、世界は未だに白人支配のアパルトヘイトだったろうと考えてよい。大戦後も、イギリスやオランダはもう一度マレーやインドネシアに軍隊を送り込んで制圧しょうとしたのだ。しかし同じ有色人種の日本人に簡単にやられるところを一度見られては白人無敵の神話も崩れる。ホーチミンの勇気は日本人が簡単にフランス人をやっつけたところを見たことから生じている。 |
| 倉林和雄氏(英霊にこたえる会中央本部運営委員長) ポツダム宣言受諾の調印式が行われた戦艦「ミズーリ」には星条旗が二つ揚げられていた。一つは開戦の1941(昭和16)年12月7日、ホワイトハウスに掲げられていた星条旗で、もう一つはなんと寛永6年にペリーが浦賀に黒船4隻で来た時に旗艦に掲げていた星条旗である。 ニューヨーク・タイムズの1945(昭和20)年8月14日の社説に「ペルー以来の目的が達成して、太平洋の覇権は、我々のものになった。そして、中国の市場は我が手に入った」という趣旨のことが書かれているとのことですが、アメリカの意図がわかる事実である。スターリンが、日ソ不可侵条約を踏みにじって戦争したのは、日露戦争の敵討ちだったと言ったのと同じで、分かり易い。 |
| 小堀桂一郎(東京大学名誉教授) マッカーサーの1951(昭和26)年5月3日から3日間にわたった上院での証言ですが、もう一つ、かなり重大な事項が語られています。「過去100年においてアメリカが犯した最大の外交的過ちは、シナ大陸において共産主義者の勢力がのさばるに任せてしまったことである」という一句です。「アメリカ過てり!」という告白であり、言い換えれば大東亜戦争は正しかった、日本の国家としての対応は正しかったという証言に等しい。 |
| 櫻井よし子氏(ジャーナリスト) 1921年のワシントン会議は海軍軍縮会議として知られているが、同時にそれはアメリカがあからさまな形で中国に肩入れした会議でもあった。ジョン・アントワープ・マクマリーが1930年代に発表した「平和はいかに失われたかー大戦前の米日中関係、もう一つの選択」に詳述されているが、彼は「日本がアジアを戦争に巻き込むドラマの悪役であるとアメリカは信じていたが、日本の1930年代の強引な政策は、一方的な侵略とか軍国主義のウイルスに侵された結果などではなく、それに先立つ時期のアメリカを含む諸国の行為がもたらしたものだ」と、中国を優先し、正当な理由なく日本を退ける米英の政策の非を説いている。しかしながら、この明晰な分析は当時まったく取り入れられなかった。 私達は、ワシントン会議の条文とその精神を最も忠実に守ったのは日本であり、ワシントン体制を守れるかどうかは、中国の自制と、それを明確に中国に要求すべきだった米英、とくにアメリカの態度にかかっていたということ。そういう日本の立場をきちんと子供たちに理解させなければならないと思う。一つ一つこうした積み重ねをしていくことで、歪曲された歴史の呪縛を解いて行くことが、教育界やジャーナリズムに身をおく者の務めである。 ※アメリカの一貫した「日本排除=いじめ」と中国の徹底した「排日、侮日=嫌がらせ」 |
| 加藤三之輔(カネミ倉庫会長) 日本軍は弾薬の無い中で、なぜあれだけ立派な戦いをやれたのか、それは結局トインビーが言うとおり、日本人は、アジアの解放、有色人種の解放という大義名分があったからやれたんだと。私自身もその気持ちで働いたわけです。ですから中国の人にも解かっていただき死刑にもならなかった。とにかく初めてシナに行った時には、びっくりした。嘘だと思っていたら、天津の英租界のビクトリアパークなどの入り口に、「犬とシナ人は入るべからず」と、英語と漢文で書いてある。それを見て腹が立ったね。人の家に土足で入り込んで来て、てめえらは朝からゴルフに行って、シナ人や朝鮮人や日本人を朝からこき使って傲然としている。ことつらーと、思ってカチン!カチン!と頭に来ましたね。 |
| 中西輝政氏 (京都大学教授) ・昭和16年12月、開戦に向かう最後の午前会議、対米開戦ということを最終的に決断した会議が終わったあとに当時の海軍軍令部総長であった永野修身が語った有名な言葉ですが、「この戦争は果たして勝てるのか」という問いに対して、彼は「この戦争に勝てないだろう。負けるかもしれない。これは進むも地獄退くも地獄」という趣旨の話をした。「しかし、ここでもし我々が退いたら、日本という国家が二度と再び立ち上がれない国になるだろう。ここで一度は敗北をしても、国家としての建前というものは残るはずだ。国家としての主張を残すことが日本民族の再起、三起に決定的に重要な選択ではないかと自分は考える」言っている。 ・国家が根元から衰退するのか、あるいは敗戦という悲惨な目にあうのか、この二つの選択しかないとしたら、日本民族があの時期に立ち上がり、最後の決断をしたことは、3,000年になんなんとする日本の歴史のなかで偉大な「民族の叙事詩」として残り得る経験となる。長期的視野で歴史を見る人間には必ずそう見える。 ・「なぜ日本があの敗戦から立ち上がれないのか」を考える時、占領政策として実に巧妙な歴史観の植え込みがあったことは、今日の歴史研究で明らかであるが、私はアングロサクソン諸国や欧米の長い国際関係の歴史の中から生まれてきた「情報工作」という視点も提起したいと思う。⇒情報工作は日本民族にはなかなか理解できないことである。 ------------------------------------------------------------------------ ◇ ------------------------------------------------------------------------------- 「文藝春秋 11月号 平成17年度」 ・明治憲法的に法構成しても全く結論ははっきりしています。つまり昭和16年の時点では、天皇の輔弼も、輔翼も、つまり政府も統帥部も全て一致して開戦の決定をしていますから、明治憲法の建前からしても、天皇はその決定に口出しができない。もし天皇が独断で、「日米戦争まかりならぬ」と言ってしまうと、それは上からのクーデターになりますからね。ところが昭和20年の8月の場合は、最高戦争指導会議での意見がポツダム受諾派と降伏条件再照会派とで3対3に割れた。政府の意思決定が機能していないので、政府としての意思が存在しない、として、大元帥陛下ではなく、統治権を総覧する天皇陛下に全てを委ねる、という鈴木貫太郎首相の進言があった。そこであの御聖断が下ったのです。 ・政治が大衆化する中で、政党が腐敗して、国民の信頼をまったく失いますね。昭和4年の後半なんて汚職のオンパレードですよ。朝鮮総督の山梨半造が収賄で検挙された「朝鮮総督府疑獄」、前賞勲局総裁の天岡直嘉が売勲詐欺に問われた「勲章疑惑」。「五大私鉄疑惑」では小川平吉鉄道相、この人は宮沢喜一さんのお祖父さんですが、ついに現職大臣まで起訴されます。 ------------------------------------------------------ ◇ ----------------------------------------------------------- 「諸君8月号 平成18年度」 《真の勝者はソ連、中共、日本の左翼》 ・東アジアにおける第二次世界大戦において真の勝者は、「ソ連」、「中国共産党」そして「「日本の左翼勢力」であり、真の敗者は大日本帝国と蒋介石そしてアメリカであったのではないだろうか。 ・第二次世界大戦とは、この「共産」「反共産」の分裂と対峙という底流の上に、ヨーロッパにおいては第一次世界大戦以来の欧州大陸の「地域覇権」をめぐる英独対立、東アジアにおいては日露戦争以来の日米間の太平洋をはさんだ「地域覇権」争奪という伝統的要素が表層としてその上に重なって起こったもので、それが第二次大戦のグローバルな実像ということになろう。 |
| 司馬遼太郎対話選集 司馬遼太郎Vs海音寺潮五郎 文芸春秋社 海音寺:こわい奴が来たら防ごうという気持ちが攘夷論ですからね。素朴なものですよ。攘夷論もだんだん変わって、やがて日本の独立の確認運動となり、最後には幕府をゆさぶるだけを目的とするものになりますけどね。その後に、開国して、日本の力を強くして、海外まで押し出して行こうという考え方が出てくるのですね。それは、自然ですよね。 |
| ベン・アミー・シロニー ヘブライ大学教授 正論 平成15年 6月 ・日本人が戦ったのは、その帝国の栄光のため、その神聖なる天皇のため、経済的自立のため、そして、(その主張するところでは)白人植民地主義からアジアを開放するため、であった。 |
| 岡崎 久彦 岡崎研究所所長 諸君 平成15年6月号 ・大東亜戦争がそうです。昭和16年の開戦の詔勅では”自存自衛のための戦い”であったけれども、昭和18年11月の大東亜会議開催以降は、“東アジアの植民地を独立させ解放する”のが最大の目標になったのは事実です。 しかし、当時、他国の植民地を解放するために侵攻するというのは内政不介入を原則とする国際法違反の最たるものだったはずですが、大東亜戦争後は、逆に植民地解放は正義の戦争になった。 ------------------------------ ◇ ------------------------------ 諸君9月号 平成16年 ・@ハル・ノート、A開戦の詔勅、B大東亜共同宣言、Cヤルタ協定、Dポツダム宣言、この5つぐらいがわかればこの前の戦争は大体わかる。 |
| 岡本 行夫 外交評論家 首相補佐官 諸君 平成15年6月号 ・日本とイラクはまるで違う。終戦にあたって昭和天皇が果たした役割と、サダム・フセインとは天と地ほどに違うし、敗戦に臨んであらわれた国民性も、全然違う。日本の戦争責任者で逃亡した者は一人もいず、全員捕まったか自殺したのに対し、イラクの高官は皆、逃げてしまった。 |
| 瀬島 龍三 大東亜戦争の実相 PHP研究所 ・自存自衛のための戦争だったといえる。 ・アメリカの鉄道王ハリマン氏の南満州鉄道共同経営計画案、セオドウ・ルーズベルト大統領の満州中立化案等、アメリカの満州割込みの積極的意向は、日本及び帝政ロシアをいたく警戒させましたが、日米対立の最初の刺激的事件は、1906(明治39)年カリフォルニア州における日本人排斥運動、なかんずくサンフランシスコ市の日本人学童に対する公立学校からの隔離問題であります。州議会は日本移民入国禁止法を通過させたりしましたが、結局翌年2月、日本移民の自主規制を基調とする日米紳士協定の締結となりました。日米両国の国民感情は悪化し、日米開戦論まで流布されるに至ったのであります。 ・アメリカの陸軍公刊戦史によれば「日本が日露戦争に大勝を博し、その陸海軍の実力が、如実に認められた1906年、サンフランシスコで学童の人種差別問題が起こり、日米の間に戦争の危機が間近であるように感じられた」とし、オレンジ計画(対日作戦計画)に関する重要な検討が行われたと記されています。事実においてはセオドウ・ルーズベルト大統領は1907(明治40)年12月、アメリカ大西洋艦隊をマジェラン海峡経由サンフランシスコに回航を命じ、引き続き日本をも訪問させたのであります。それは日本に対する示威行動でもありました。 ・「合衆国及日本国両政府は領土相近接する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は日本国が支那において特殊の利益を存することを承認す。日本の所領に接壌せる地方においてさらに然りとす」という趣旨であります。これはもとより中国の独立、領土保全、門戸開放、機会均等の諸原則を前提としたものでありますが、日本はアメリカが一応日本の南満州及び東部内蒙古における特殊地位を認めたものと理解したのであります。 しかし第一次大戦が終結し、西の「ベルサイユ体制」に対応して、東にアメリカ主導の「ワシントン体制」がしかれるに及んで、日本のアジアまたは太平洋における地位は後退弱化し、その大陸発展政策は手かせ、足かせをはめられる羽目に立ち至ったのであります。 すなわちアメリカの主宰により、1921(大正10)年11月から翌年2月にかけ、いわゆるワシントン会議が開かれ、海軍軍備制限条約、中国における主権尊重、門戸開放、機会均等を基調とする9ヶ国条約、太平洋の平和と現状維持を基調とする日英米仏4カ国条約が成立し、日英同盟、「石井・ランシング協定」は破棄されたのである。 ・日本は原料を米英ブロックから輸入し、その製品を米英ブロックに再輸出し、その加工賃によって他の戦略物資を購入する仕組みであった。まさに米英依存経済そのものであった。⇒客と喧嘩したことになる。 <大東亜戦争の戦争性格> 1.日本にとって自存自衛の受動的戦争であって、米国を敵とした計画戦争ではなかった。 2.日本のリーダー層が開戦間際まで戦争回避の努力をしていたにもかかわらず、これが適わなかった事は誠に残念であった。 3.戦争の責任は日本に一方的にあるのではなく、東京裁判においてインドのパール判事が「在外資産の全面凍結などで日本を窮地に追い込んだ」と指摘したごとく、米国にも戦争の責任はあるのではないか、ということであります。 (教訓1)賢明さを欠いた日本の大陸政策 ・大東亜戦争の動機はハード面では米国の対日全面禁輸、特に石油の供給停止であり、ソフト面から見ると「ハル・ノート」に示された米国による日本の大陸政策否定、つまり国家の威信の全面否定にあると考えられます。 (教訓2)早期終結を図れなかった支那事変 ・もし日本の大陸政策が有終の美を収め得るチャンスがあったとすれば、それは満州事変から支那事変への移行を絶対に防止し、止むを得ざるも支那事変から大東亜戦争への発展を絶対に阻止すべきであったということでありましょう。 (教訓3)時代に適応しなくなった旧憲法下の国家運営能力 ・明治憲法公布後間もなく日清、日露戦争という非常の事態が発生しましたが、その運営統制機能がおおむね適切に果たされたことは、実に「元老」の存在に負う所が大であったと考えます。 元老が天皇に代わって実質的に統制機能を果たし、憲法における日本の政治権力の構造的欠陥をカバーしてきたのでありました。 (教訓4)軍事が政治に優先した国家体制 ・政治が軍事を支配せずして、むしろ軍事が政治を支配した軍事優先の国家体制であったことであります。 (教訓5)国防方針の分裂 ・明治以来露国を仮想敵国として、営々対ソ軍備の建設に努めてきた陸軍が、対米主戦論に傾き、一方明治以来米国を仮想敵国として、営々対米軍備の建設に努めて来た海軍が、対米慎重論に傾くという、誠に奇妙な状態を露呈いたしました。 (教訓6)的確さを欠いた戦局洞察 (教訓7)実現に至らなかった首脳会談 |
| 前野 徹 「第4の国難」 扶桑社 ・諸先輩方は、アメリカの都合の良いように塗り替えられていく日本を憂いながらも、日本に主権がなかった当時は、国造りに注文を出すことはかなわず、ただ手をこまねいた見ているよりほかはなかった。 ・未曾有の経済成長で奇跡的ともいえる経済の復興を遂げて後、日本人はどうなったか。高度成長に浮かれ、バブル経済を謳歌し、肝心な日本の土台、誤った歴史認識を正すという作業を疎かにして、今日まで来てしまった。 ・マレーシアの教科書には「・・・日本の占領が植民地主義に支配されていた民族に自信を植え付けた・・・私達は、強い意志と精神で日本がイギリス植民地主義の驕りを叩き潰すのに成功したことを認めた。日本占領は、また敵に攻撃された自国を守るのに、他人に頼っているだけではいけないことを私達に教えてくれた・・・」と記述されている。 ・永野修身海軍軍令部総長の発言(1941「昭和16」年9月6日、開戦を協議した午前会議) 「政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必死であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。すなわち戦わざれば亡国必死、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも「祖国護持の精神」が残り、われわれの子孫は必ず再起三起するであろう。統帥部としてはもとより先刻申した通り、あくまで外交交渉によって目的完遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である」 ・日米の対立は、自国の権益、国益を守るための衝突に過ぎない。これが歴史の真実である。アメリカは口では自由、平等、人権を標榜する国だが「国家の利益」となると恥も外聞もあっさり捨て去る国家でもある。その本質は今も変わっていない。 ・「軍事的には、日本は第二次大戦において、歴史上もっとも決定的な敗北を喫した。・・・しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは、西洋だった。・・・日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力を失墜させることに成功した。その結果、西洋は、アジア、ついでアフリカの・・・支配権を放棄せざるをえなくなった」(「新しい現実」ドラッガー著・上田惇生訳・ダイヤモンド社)⇒日本は軍事的には敗北したが、政治的には勝利した。 |
| 金子 甫 竜谷大学経済学部教授 「人類社会の形成と市場経済」 ・「アメリカはヨーロッパからの渡来者が、そこに昔から暮らしていた「インディアン」を一掃するエスニック・クレンジング(民族浄化)をして樹立した国」であり、その後、1898年には、武力でハワイ王国を併合したばかりか、フィリピンをスペインから奪い自国の植民地にし、「自国内でも有色人種に過酷な人種差別をしていた」。⇒米国につくにも中共につくにも日本は大変だ。 ・同国には毎年多くの移民が流入していたが、日本人移民に対する迫害は凄まじかった。1913年の在米日本人はハワイ在住者を除くと約6万人で、主として農業に従事していたが、カリフォルニア州はこの年、「排日土地法」を作って日本人移民の土地所有者を禁止している。 さらに1920年には第二次「排日土地法」が議会を通過、「日本人がアメリカ生れの子(アメリカ市民)の名義で土地を取得することや、土地を所有する会社の社員や株主になることさえ禁止し、さらに農地の賃貸借も禁止した。そのため、80%の日系移民は、汗を流して作り上げた農地を残して帰国したという。 排日土地法はカリフォルニアの州法に過ぎなかったが、1922年、アメリカ合衆国の最高裁判所によって恐るべき判決が下される。 「黄色人種は帰化不能外国人であって、帰化権はない」。既に帰化している日系アメリカ人の権利さえも剥奪できるというのである。これは後で作った法律では、既得権のあるものは裁けないという”法の不遡及の原則”に反する。 だが、アメリカはこの法の原則さえ無視して、第一次世界大戦にアメリカ兵として従軍して帰化権を得ていた5百人以上の日系市民の帰化権をも剥奪した。⇒アメリカは無茶苦茶な所がある。だから原爆なんかも投下したのである。 1924年になると、今度は日本人の移民を全面的に禁止する通称、「絶対的排日移民法」が連邦法として成立し、日本人の閉め出しが行われた。 ・「国際連盟の規約に民族平等の思想を盛りこむ」という日本の提案が、アメリカのウイルソン大統領に葬りさられてから29年、1948年の国連総会で採択された「世界人権宣言」は、人間の自由と平等を高らかに謳っている。日本の悲願は敗戦と引換えに実現されたのである(「人類社会の形成と市場経済、金子甫著、文眞堂刊) |
| 前野 徹 「第四の国難」 扶桑社より (ルーズベルトの陰謀) ニューヨーク州ハイドパークの大統領私邸でルーズベルトと会談した英国のロナルド・キャンベル大使がルーズベルトから「劣等アジア人種」の“品種改良”というとんでもない提案を受けたと本国に宛てた書簡に書き残している。 「インド系、あるいはユーラシア系とアジア系を、さらにはヨーロッパ人とアジア人種を交配させ、それによって立派な文明をこの地に生み出していく。ただ日本人は除外し、もとの島々に隔離して衰えさせる」 フランクリン・ルーズベルトが大統領に就いた1932年は、まさに日本が満州国を誕生させた年である。激しい人種的差別意識、とりわけ日本人嫌いのルーズベルトが、日本叩きに全精力を注いだとしても不思議ではない。 実際、この頃よりアメリカのジャパン・パッシングはますます激しくなり、アメリカはあの手この手で日本の国際社会の孤立化を図ろうとした。 ルーズベルトが、日本叩きの傀儡として利用したのが中国の蒋介石軍である。中国大陸に歩を進めた日本は、蒋介石政権を相手に日支事変に突入、戦線が拡大し、泥沼の戦いを続けていた。これが欧米の権益との糾弾の種となり、アメリカはあからさまに蒋介石軍の支援を始め、「フライング・タイガー」と名付けられた正規空軍を派遣する。 この時点で、ルーズベルトは既に重大な国際犯罪を犯している。なぜなら、義勇軍という名を借りて、事実上、参戦をしているからである。宣戦布告をせずに、戦いをしかけることは、国際法では認められていない。 蒋介石軍を支援した裏には、アメリカの深謀遠慮がある。蒋介石政権と日本が泥沼の戦いを繰り広げ、共倒れになれば、これはアメリカにとっては非常に都合が良い。中国と日本の両国が疲弊すればするほど、中国での利権獲得が容易になるからである。 ・もはや開戦の道しか日本には残されていなかった。しかし、通常の戦いを仕掛ければ敗戦は火をみるより明らかである。宣戦布告と同時に、奇襲をかけ、敵に多大な損害を与え、早期に和睦を申し入れるという道を日本は選んだ。かくして同年12月8日、日本の存亡を賭けて、ハワイの真珠湾を攻撃することになる。 だが、この日本の筋書きは、ルーズベルトの思うつぼであった。ルーズベルトが、日本の和解交渉にことごとく非妥協的な態度を貫いてきたのも、日本を開戦に追い込み、日本から先制攻撃を仕掛けてほしかったからである。 当時、アメリカは孤立主義を取っており、世論が第二次世界大戦への参戦に反対していた。そのため、日本を叩き潰したいと思っていても、自ら攻撃を仕掛けることはできない。そこで、日本に第一撃を加えさせ、世論を喚起して、アメリカ国民を戦争へと引きずり込もうと日本への挑発を繰返したのである。ハル・ノートはそのための引き金だった。 ハル・ノートが手交される前日、ホワイトハウスで、ハル国務長官、スチムソン陸軍長官、ノックス海軍長官が会合している。主席者のひとり、スチムソンは会議の様子を記録した日記に「我々が過大な危険にさらされないで、日本に最初の一弾を撃たせるように、どのように誘導していくかが話し合われた」と、ルーズベルトの陰謀を明らかにしている。 日米開戦はルーズベルトが仕掛けた巧妙な謀略。これはもはや世界の常識になりつつある。 ・戦争に日米の両国民を引きずり込んだのみならず、日本の都市に無差別攻撃を仕掛け、百万人を越す無辜の民の命を奪ったフランクリン・ルーズベルトこそ国際犯罪人である。 |
| ハリー・トルーマン 前野 徹著 「第四の国難」 扶桑社より ・ルーズベルトの死去で大統領の椅子が転がり込んできたトルーマンは本来、大統領の器ではなかったともいわれている。外交や軍事問題に経験がなく、ましてや原爆に関しては蚊帳の外に置かれていたトルーマンは、ルーズベルトの側近を頼るにするほかはなかった。 最も頼りにしたスチムソンは、そもそも日本に原爆投下を主張した首謀者だ。トルーマンは、何ら疑問も差し挟む余地もなく、ルーズベルトの政策を受入れてしまう。 その後、一ヶ月も経たない五月七日にドイツが降伏した。いよいよ残るのは日本だけである。日本への原爆投下という最悪のシナリオが動き出した。 5月31日、スチムソンが委員長を務めていた原爆に関する最高諮問機関である、暫定委員会が、日本への原爆投下を決める。この時点ではまだ、、原爆は完成していない。それがトルーマンに伝えられたのは6月6日である。トルーマンはほとんど何の躊躇もなく賛同したといわれている。 いや、小心でリーダーシップのかけらもなかったこの男には「ノー」と言えなかったと言ったほうがふさわしいかもしれない。原爆が完成したのは、7月21日。折りしもトルーマンはポツダム会議に出席中で、原爆実験の成功を知らされた日、日記にこうしたためている。 「われわれは人類史上もっとも恐ろしい爆弾を開発したのだ。それは聖書に書いてあるノアとその伝説的な箱舟ののちに、ユーフラテス文明時代に予言された、劫火による人類の絶滅をもたらすかもしれない」 だが、トルーマンは自ら黙示録の指し示す滅亡への引き金に手をかけた。まず、政治的状況が許さなかった。原爆開発には二十億ドルもの巨額を投じている。もし、新兵器を使わず、戦争を長引かせたとしたら、議会や国民の非難が巻き起こるのではないかという危惧があった。 その背景にはドイツの降伏を契機として国内に広がっていた米国民の厭戦ムードがある。ましてや日本上陸作戦でアメリカ人に大勢の犠牲者が出るとなると、国民から弾劾されかねない。 さらに、トルーマンには大量殺戮に対する一種の感覚麻痺があったという見方もある。既にアメリカは、日本の都市に対して無差別攻撃を繰返しており、東京空襲だけで、非戦闘員である民間人を8万3千人を虐殺している。 もうひとつ、トルーマンのアメリカには、原爆投下をぜひとも行わなければならなかった事情があった。対ソ原爆外交である。 1931年、共産党政権が誕生し、その三年後、国際連盟に加入を認められたソ連は、大戦の間隙をぬって、その覇権主義をむき出しにして東欧へ勢力を伸ばしていた。その上、45年のヤルタ会談で、極秘裏にソ連の参戦が決まった。ソ連が参戦を表明すれば、日本が降伏するのは目に見えている。 そうなると、アジアでソ連の力が強まり、第三次世界大戦の引き金になりかねない。終戦後のソ連の膨張を牽制するためにも、原爆という外交爆弾が必要だった。そして人種差別。日本への原爆投下には、白色人種の有色人種への蔑視がその底流にながれていたことは言うまでもない。 ・二度の原爆投下で、日本人は大量に虐殺された。平成2(1990)年に厚生省が発表した原爆死没者の総数は295,956人のも上っている。そして、今も原爆の後遺症にもがきくるしみながら、恐怖の中で暮らしている日本人がたくさんいる。 ヒトラーがユダヤ人に対して行ったホロコーストが二十世紀最大の大虐殺なら、原爆はさらにそれを上回る人類史上最大の大虐殺である。ヒトラーが有罪なら、トルーマンはもっと重い罪に問われなければならない。 |
| 『Day Of Deceit』 ロバート・B・スティネット著 (フリープレス刊) ・「当時の大統領がそれを事前に知っていただけでなく、最初に日本が米国を攻撃するように仕向けたのは大統領自身とその側近たちであった」と、機密扱いを解かれた国家安全保障公文書からの引用やその他の証拠をもとに立証している。 1940年10月7日、アーサー・H・マクラカム少佐は海軍諜報部の長官に、アメリカの参戦を容易かつ正当化するための8つの行動からなる計画を送っている。その計画とは日本との戦争開始を最優先にしたものであり、米国を軍事攻撃せざるをえない状況に日本政府を追い込むための一連の方策が盛り込まれていた。 そして、日本領海内へのアメリカの戦艦配置や、日本経済の圧力を狙った完全な経済封鎖を含むこのマクラカム少佐の8つの提案を、ルーズベルト大統領は即座に実行に移し始めた。ヨーロッパへの派兵をしないと公約していたルーズベルトは、どうしても日本に奇襲攻撃をさせる必要があったのだ。そうなれば、アメリカは自己防衛のために行動しているのであり、海外派兵は行っていないと有権者に説明できる。 日本の奇襲攻撃により米国民が一致団結し、当時第二次世界大戦への参戦に否定的だった米国世論を戦争に変えるために日本を挑発し、「最初の引き金を引かす」。このルーズベルト大統領の陰謀により、日本は真珠湾攻撃に走らされ、白人同士の植民地争いのヨーロッパの戦争に引きずり込まれることとなった。真珠湾攻撃をきっかけにアメリカ国民は「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、日本への憎悪を募らせ念願の対独戦にも参戦した。 |
| 蓑原 俊洋 神戸大学助教授 諸君 平成15年7月 ・暗合解読によって乙案の内容を事前に知ったアメリカは、その文書を翻訳する課程で、「最後的譲歩案」という語句を「最後通牒」と誤訳してしまう。米国には、国民党政府の反対を押し切って暫定協定案を日本に示す用意があった。しかし、乙案が「最後通牒」であるならば、状況は一変する。日本の態度はすでに決しており、もはや暫定協定案などで、この流れを変えることはできなかった。その結果、こうして米国政府の最終回答であるハル・ノートが日本政府に手交されたときには、和平への最後の望みを託した暫定協定案の部分は完全に削除されていたのである。 |
| 何故「大東亜戦争」と呼称すべきなのか 福地惇 正論3月号 平成16年 連合軍総司令部は昭和20年12月15日、日本政府に対し、国家神道の禁止と政教分離の徹底を指示する覚書を出すが(これを「神道指令」という)、その中で「大東亜戦争」という言葉の使用を禁じた。「大東亜戦争」の呼称は昭和16年12月12日の閣議で、「今次対英米戦をシナ事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決定したことによる。いわば日本にとっての戦争の大義を示した言葉である。米国がそれを否定し、「太平洋戦争」と呼称することを命じたのは、あの戦争が、文明と人道に対し野蛮な挑戦をした日本を懲らしめ、平和と民主主義を願う文明・正義の戦争だったというアメリカにとって都合のよい認識を日本国民に刷り込もうと意図したからである。 そもそも戦争とは当事国双方が互いに妥協不能の政治的、軍事的、経済的な対立に立ち至った時に発生する。だから当然、双方にいい分も理屈も正義もある。どちらも根元には、国威、国益を擁護・拡大したいという国家の本能が磐居するが、一方が邪悪で不義、他方は善で正義だということはあり得ない。大東亜戦争の真実は、先に述べた通りでー外交の失敗や戦争の巧拙といぅ問題はここでは問わないー、我国側からすれば、国家の大義と国益を死守するための「防衛戦争」であった。「開戦の詔書」はそれを表明している。だからこそ私は「大東亜戦争」と呼ぶ。・・・ 我国政府は、ポツダム宣言が「国体」が護持されると確認した上で降伏し、同宣言の条件による連合国軍の軍事占領管理に国家の命運を委ねた。 占領支配に直面した我国にとって必要だったのは、ポツダム宣言の誓約を超えた占領政策には巧妙に抵抗し、面従腹背しながら政策の内実を空洞化するなど「講和後を見据えた我慢強い被占領側の政治」であったろう。それが出来なかったことは、それまで対外戦争の大敗北を経験したことのない我国の弱点だった。 この弱点のゆえに、占領政策推進のために捏造された太平洋戦争史観を鵜呑みにしてしまい、「無条件降伏」したのだからという諦念のもとに専制権力たる占領軍政府に迎合した日本政府は、国家体制変造に抵抗できなかったばかりか、「敗北主義」の蔓延を阻止しなかった。 小泉首相の“解放感謝”の談話が何を意味しているか。民族の弱点に付け込んで醸成された「敗戦国体制」と、半世紀以上たってもなお日本を重く拘束し続ける魔物であることに、われわれは改めて思い起こさねばなるまい。 |
| カイロ合意 正論5月号 平成17年度 カイロ合意は、対日方針を協議するため1943(昭和18)年11月22日からエジプトのカイロで開催された米英中首脳会議を受けて、同月27日に発表された。署名はフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウインストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府首席。一般にカイロ宣言と呼ばれる。 米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の無条件降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、朝鮮の自由と独立などが盛り込まれた。カイロ宣言の対日方針は、その後、連合国の基本方針となりポツダム宣言に継承された。 |
| 正論別冊四 「大東亜宣言」 抑も世界各国が各其の所を得相倚り相扶けて万邦共栄の楽を偕にするは世界平和確立の根本要義なり 然るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行い大東亜隷属化の野望を逞しうす遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり大東亜戦争の原因茲に存す 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全うし左の綱領(共存共栄、互助敦睦、伝統尊重、経済発展、人種差別の撤廃)に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与っせんことを期す 大東亜各国は協同して大東亜の安定を確保し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す 一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す 一、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し各民族の創造性を伸暢し大東亜の文化を昂揚す 一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す 一、大東亜各国は万邦との交誼篤うし人種的差別を撤廃し普く文化を交流し進んで資源を開放し以って世界の進運に貢献す |
| バンドン10原則(1955年4月) 別冊正論 4 1.基本的人権および国連憲章の目的と原則の尊重 2.すべての国家の主権、領土保全の尊重 3.すべての人種の平等と代償を問わずすべての国家の平等の承認 4.他国の内政への介入、干渉をさしひかえること 5.国連憲章に合致する諸国家の個別的あるいは集団的自衛権の尊重 6.(a)大国の特定の利益に役立てるための集団的防衛の諸協力の利用を差し控えること (b)いかなる国も他国を圧迫することをさしひかえること 7.いかなる国の領土保全、あるいは政治的独立に対しても、侵略行為、脅迫、あるいは力の行使をしないこと 8.あらゆる国際紛争は、国際憲章に従って、交渉、調停、仲裁あるいは裁定のような平和的方法、ならびに当事国の選ぶその他の平和的方法で解決すること 9.相互利益と協力の推進 10.正義と国際的義務の尊重 |
| 真中行造 HP管理者 ・大東亜戦争に日本は最終的には負けた。しかしこの戦いは結果として“ブロック経済”をやめさせ、“人種差別による植民地支配”をなくさせることになった。 ・原 理氏(県立広島大学講師)の「中国共産党が反日を利用せざるを得ない重大な事情」(正論10月号)は大変示唆に富む論文だと思います。 読ませて戴いてまず閃いたのは、中共の「民主化」は99%なく、中共が民主化されない以上99%、「日本侵略」の可能性があるということです。 次に閃いたのは、日米戦争は「日米の共産主義者」が招いたもの、あるいは「容共主義者」ー具体的にはルーズベルトと近衛文麿ーが招いたものと言っていいでしょう。裏で画策・煽動していたのは勿論日・米・中・ソの共産主義スパイである。 三番目に言えることは、戦争を排除したければ「共産主義的なもの」を徹底排除しなければならないということです。よく学問の自由があるからと反論されるが、共産主義は学問でしょうか?空想的社会主義とか無宗教という宗教とも言われています。徹底して「学問の座」から引き降ろす必要があるのではないでしょうか。平時で一億人を殺す思想です。オーム真理教の教義と変わらないでしょう。 中国共産党にとっては日本軍国主義(フィクション)と闘っている姿勢を常に人民に見せておく以外、今では「正統性」の根拠を見出せないという。「靖国参拝反対」、「歴史教科書改悪反対」は「統治の正統性」のプロパガンダです。一方、日本にとっては当面の「安全保障」の役割を果たしているという。、「NHKの国営化」、「教育基本法改正」、「憲法改正」、「日本の核武装」まで、この際中共の「ガス抜き」への協力として、日本も多いに日本の立場から「靖国参拝」と「歴史教科書」を継続活用すべきでしょう。その場合万一武力衝突にならない為にも、日米の連繋強化、集団自衛権の行使は憲法上も認められることを早めに表明しておいた方がよいでしょう。共産党とは「自殺を知らない猛獣」、生きるためには何をしでかすか分からない。戦争ぐらい何んとも思っていない。 ・本格的な戦争が始まるまでには、まず「思想戦」がある。ついで「心理戦」である。本格的な戦争はその後である。日本にあてはめると、日清・日露戦争で勝利したが、“大正デモクラシー”という「思想戦」で敗北し、昭和十年代には大陸での邦人への言語に絶する“嫌がらせ”=「心理戦」で理性を失い、本格的な戦争に突入していった。 |
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