
| 全体主義を招く-人権擁護法案(案) |
| 正論「人権擁護法」の国会提出を許すな 自由社会の常識覆す異常な法案 評論家・西尾幹二 国会に上程が予定されている「人権擁護法」が今の法案のまま成立したら、次のような事態が発生するであろう。 核を背景にした北朝鮮の横暴が日増しに増大しながら、政府が経済制裁ひとつできない現状がずっと続いたとする。業を煮やした拉致被害者の家族の一人が政府と北朝鮮を非難する声明を出した。すると今までと違って、北朝鮮系の人たちが手をつないで輪になり、「不当な差別だ」「人権侵害は許せない」と口々に叫んだとする。 直ちに「人権擁護法」第五条に基づく人権委員会は調査を開始する。第四十四条によってその拉致被害者家族の出頭を求め、自宅に立ち入り検査して文書その他の物件を押収し、彼の今の政治発言を禁じるであろう。第二十二条によって委嘱された人権擁護委員は北朝鮮系の人で占められている場合がある。 韓国政府の反日法は次第に過激になり、従軍慰安婦への補償をめぐる要求が再び日本の新聞やNHKを巻き込む一大キャンペーンとなったとする。代表的な与党政治家の一人がNHK幹部の来訪の折に公平で公正な放送をするようにと求めた。ある新聞がそれを「圧力だ」と書き立てた。 すると今までと違って、在日韓国人が「不当な差別だ」「人権侵害は許せない」と一斉に叫び、マスコミが同調した。人権擁護法の第二条には何が「人権侵害」であるかの定義がなされていない。どのようにも拡張解釈できる。 かくて政治家が「公平で公正な放送をするように」といっただけで「圧力」になり、「人権侵害」に相当すると人権委員会に認定される。日本を代表するその政治家は出頭を求められ、令状なしで家を検査される。誇り高い彼は陳述を拒否し、立ち入り検査を拒むかもしれないが、人権擁護法第八十八条により彼は処罰され、政治生命を絶たれるであろう。人権擁護委員は在日韓国人で占められ、日本国籍の者がいない可能性もある。 南京虐殺に疑問を持つある高名な学者が百四十三枚の関連写真のすべてを精密に吟味検査し、ことごとく贋物(にせもの)であることを学問的に論証した。人権擁護法が成立するや否や、待ってましたとばかりに日中友好協会員や中国人留学生が「不当な差別だ」「人権侵害は許せない」の声明文を告知したとする。人権委員会は直ちに著者と出版社を立ち入り検査し、即日の出版差し止めを命じるであろう。 南京虐殺否定論はすでに一部のテレビにも登場し、複数の新聞、雑誌、とりわけミニコミ紙で論じられてきた。人権委員会は巨大規模の事務局、二万人の人権擁護委員を擁する執行組織を持つ。まるで戦前の特高警察のように全国をかぎ回る。 人権擁護法第三条の二項は、南京事件否定論をほんのちょっとでも「助長」し、「誘発」する目的の情報の散布、「文書の頒布、提示」を禁じている。現代のゲシュタポたちは、得たりとばかりに全国隅々に赴き、中国に都合の悪いミニコミ紙を押収し、保守系シンクタンクを弾圧し、「新しい歴史教科書をつくる会」の解散命令を出すであろう。その場合の人権擁護委員の選考はあいまいで、左翼の各種の運動団体におそらく乗っ取られている。 私は冗談を言っているのではない。緊急事態の到来を訴えているのである。二年前にいったん廃案になった人権擁護法がにわかに再浮上した。三月十五日に閣議決定、四月の国会で成立する運びと聞いて、法案を一読し、あまりのことに驚きあきれた。自民党政府は自分で自分の首を絞める法案の内容を、左翼人権派の法務官僚に任せて、深く考えることもなく、短時日で成立させようとしている。 同法が二年前に廃案になったのは第四十二条の四項のメディア規制があったためで、今度はこれを凍結して、小泉内閣の了承を得たと聞くが、問題はメディア規制の条項だけではない。ご覧の通り全文が左翼ファシズムのバージョンである。もちろん、機軸を変えれば共産党、社民党弾圧にも使える。自由主義社会の自由の原則、憲法に違反する「人権」絶対主義の狂気の法案である。 外国人が人権委員、人権擁護委員に就くことを許しているのが問題だ。他民族への侮蔑(ぶべつ)はいけないというが、侮蔑と批判の間の明確な区別は個人の良心の問題で、人権委員が介入すべき問題ではない。要するに自由社会の常識に反していて、異常の一語に尽きる法案である。予定される閣議決定の即時中止を要請する |
| ≪部会長 平沢勝栄議員(推進派・衆・東京14区)≫ ○最初に古賀誠議員から、今国会に提出したいという強い思いを込めた挨拶があった。 次に人権擁護局長より、法案の説明を7点に絞って説明あり。 ○法務省の外局とすること、現行の法律は廃止すること、人権委員はあらゆる人権救済を行うことや調停したり法廷に訴えたりする作業を行うこと、報道問題については2年内に検討すること、この法案は5年を経過したら見直しを行うこと、 部会長より以上のような案を15日の閣議に提出したい旨告げられ、議員より発言 古川禎久議員(反対派・衆・宮崎3区) (資料1枚あり)差別はあってはならない。しかし4点ほど、疑義がある。 ○「人権侵害」という定義があいまい。曖昧なままでは、罰則規定もあるので、表現の自由に抵触する虞あり。 ○2万人の人権委員の選定過程が不透明。「特定の団体」とされているが、どのような団体を指しているのか分からない。法の下の平等に触れる可能性あり。 ○出頭要請や立ち入り検査、勧告、公表などをする、とあるが、これは社会的な制裁になる。裁判所を通さずにこれを行使することは、憲法との関係に照らしてどうかと思われる。 ○法務省の外局に置くとのことで司法権能を持つことになる。わが国には司法制度があるのだから、その拡充をはかればよいではないか。別に作るのは不自然である。三権分立に反しないか? 城内 実議員(反対派・衆・静岡7区) (2枚資料あり)石川議員が本質をついた質問をされたと思う。 ○立法趣旨は賛成である。が、疑問がある。 ○2条に「その他の」とあるが、あらゆることが人権侵害が対象となってしまう。 ○3条2項には人権侵害の「予防」もできることになっているが、これも疑問である。 ○人権侵害の基準は当事者によって基準が違う。なんびとも申し出ることができる、となっているが、どういう客観的な基準が考えられるのか。 ○22条3項について、住民であれば人権委員になれる、となっているが、在日外国人でもなれるということか?また、人権を保護するような団体から選ばれるとあるが、例えば朝鮮総連などはどうなのか?それに入るのか? ○84条に公私の団体の緊密な連絡、とあるが、朝鮮総連や従軍慰安婦の裁判などを行った団体などは緊密な連絡を取り合う団体となるのか。 ○憲法33、34、35条に関連するが、令状無しで立ち入り検査まで行えるのは権限を与えすぎではないか。 ○訴えられた者が結果的に人権侵害していない、ということになったら、その人はどう救済されるのか?信用回復は難しい。訴えられた者の人権も守られなければならない。同和と在日の人が同時に互いを訴えたら、どうするのか? ○似非同和などが、人権委員会に訴えるぞ、と脅す可能性も懸念される。 以上について法務省答弁 ○人権の定義の曖昧さについて 定義は人間に備わった権利、として一定にあり明らかである。国際条約などにもあるとおり。 ○不当な差別の曖昧さについて 差別の定義は憲法14条にある。 ○罰則規定について 行政罰ではないし、直接強制力ではない。民事の罰則だから問題ない。 ○国籍条項について 各地の実情に応じて外国人も任命しろと言われて、こういう規定にした。外国人が公務員になるというような公権力行使の立場に就くことはできないが、相談に乗るという人権委員にはなってもいいと思う。ただし、立ち入り調査をする権限などは与えられない。 ○三権分立について 独立行政法人だから司法制度を補完するものだから問題なし。 ○特定の団体について 朝鮮総連などは現行法と同じ扱いである。ただ、人権委員を選ぶとき、議会にかけ、弁護士会などにも相談することになっている。朝鮮総連などが人権団体に該当するかと言われれば一概には言えないが、それが人権に関係する団体かどうか、という基準で決まることである。外国人の多い所などでは、そういう団体から選ばれる可能性はあるし、そういう余地は残すべきだと思う。 佐藤剛男議員(推進派・衆・福島1区) ○古賀会長に感謝申し上げている。2002年、自分も部会長をやったが、刑務問題が浮上していたので、やれなかった。 ○野党は人権委員会を内閣府に置け、とその当時は言っていたが、古賀会長の努力でここまで来れたことを感謝する。各論はあるだろうし、報道機関問題凍結という問題はあるが、今回は国会に提出すべきである。国連にも人権委員会があるし、それを活用して推進すべきである。 佐田玄一郎議員(推進派・衆・北関東) ○古賀先生に敬意を表している。 報道によるプライバシー侵害は、根本的におかしいと思っている。朝日・NHK問題を糾明しているが、きめつけ報道がひどい。メディアの削除を野党は主張しているが、凍結してほしい。 大村英章議員(推進派・衆・愛知13区) ○ぜひ成立させてほしい。個人情報保護法案の時もマスコミ規制2法案と言われて、マスコミの問題は落として成立させた。この際、削除しないと成立しないのではないか。 ○人権委員会を法務省におきたい気持ちは分かるが、解同の人が自分の所にも来るが、彼らも面子があり退かないので、内閣府で通せばよいではないか。 亀井郁夫議員(反対派・参・広島) ○自分の所に広島から何本も電話が来た。泣くような声で、慎重にやってほしいという電話だった。 ○差別はいけない。しかし、部落解放の問題は、広島ではひどかった。部落解放からのつるし上げで30人も自殺者が出た。同和の予算も莫大についていたが、黙って耐える期間が長かった。 ○かつては教育県だったのに、日本で最低になり、暴力は一番になった。 ○3年間でやっとここまで正常化した。 ○広島の懇談会において「団体との緊密な連携をもって」という言葉が入っていたために、教育に解放同盟が介入した。 ○今回の法案が通れば、また悪夢がやってくる。 ○マスコミも警察も部落から脅されつるし上げられたのだ。だから自殺者が出ても報道されなかった。「公私の連絡を取って」の「私」などは大変なことになる。 ○人権擁護局が今あるのに、そこでなぜ人権救済をやれないのか。 古賀誠議員(人権問題等調査会長) ○一部の団体のため、という誤解があるようだ。自分のところにもそういう批判がきている。決してそうではない。大臣の諮問機関で議論されて答申されたものだ。 ○修正すべきは修正されなければならないだろう。しかし、一部の団体のため、という誤解を解いてもらわねば先には進めない。 法務局長 ○広島でのことに自分はかかわった。警察には屈するな、とハッパをかけた。 衛藤晟一議員(反対派・衆・比例九州) ○何もできなかったじゃないか。 法務局長 ○いや、だいぶ良くなった。 柴山昌彦議員(反対派・衆・埼玉8補) ○先ほどの説明では外国人は相談に乗るだけ、とのことだったが、それはちゃんと条文に書いてあるのか? ○権力が付与されるのだから人選についての透明性をはかってほしい。 ○法務省外局にするのは現実的だろうが、古川・城内先生の指摘は杞憂ではないと思う。 法務省 ○外国人は中央の委員にはしない。一般調査と救済は分けてある。 ?議員(富山) ○富山県庁にいた時代、似非同和にあたった。亀井先生のご指摘どおり、 ○大変だった。古川・城内さんの指摘は正当である。運用する上で危ないことになると思う。その重大性を分かった上で法案を考えるべきである。 渡辺博道議員(推進派・衆・南関東比例) ○賛成したい。個人情報保護法にかつてかかわった。マスコミ問題は削除してほしくない。 谷 公一議員(反対・衆・兵庫5区) ○30年前、地元兵庫で八日高校事件というのがあり、関わってきた。亀井先生の気持ちが分かる。国は解同に主体性を持ってあたっていない。 ○法案の趣旨は賛成だが、運用が心配である。城内・古川さんと同じだ。 佐藤 錬議員(反対派・衆・九州比例) ○冒頭で若手の城内・古川さんが資料を配布したが、純粋な気持ちで出したのに、真剣に法務省は答えなかった。文書で答えるべきだ。答弁もなめたような言い方だった。 ○また「その他」「予防」「おそれがある」と言った文言に懸念がある。ちゃんと我々にも分かるものを提出するべきだ。 衛藤晟一議員(反対派・衆・九州比例) ○趣旨は賛成だが、大分でも解同問題があった。時間をかけて正常化してきた。 ○人権は葵の御紋になる虞がある。誰も文句がいえないからだ。 ○しかし、本当にそれで弱い人が救われるのか?逆になりはしないか? ○また女性戦犯法廷などの団体なども入ってくるだろう。どうするのか? ○自分はこの法案には反対だ。 ○外国の人は住まいの問題とか今大変な目にあっている。現行法で守ってあげられるはずなのに、それができてない。 ○今までの(広島や大分や・・の)経緯・歴史から見て、法ができても、その趣旨は守られないだろう。 自見庄三郎議員(推進派・衆・福岡10区) ○自分は野中さんの下で懇話会のメンバーだった。選挙区田川市の全日本同和会は自民党と友好的な団体である。 ○解同はかつて共産革命でしか救われないと言ってたが、ソ連の崩壊で方向性を変えた。自民党を支持してくれるようになったのだ。 ○似非同和と人権を守る団体とは分けて考えるべき。そういう意味で、この法案は進めるべきだ。 ○メディア規制を公的にしないのは日本だけだ。規制すべき。 ○城内・古川議員の意見は、初めて聞く理論だった。 小林興起議員(反対・衆・東京10区) ○この法案は反対すべきものではないが、問題として挙げられたことを考えるべき ○正常化した広島に、我慢してくれとは、言えないじゃないか。 ○今の救済措置ではいけないのか? ○マスコミの問題と人権救済の話は分けて考えるべき。 ○今どんな救済をしなくてはならないか、というような具体的な資料を法務省に出してほしい。 ○人権の名において、宗教裁判のようなことが行われてはならない。 ○訴えられた側の人権侵害を救えるのか? 山谷えり子議員(反対派・参・比例) ○不安を持っている。人権は愛と慈しみと関係すること。 ○参画条例では苦情処理委員会などが作られているが、例えば埼玉では男女別校をやめさせたいと動いたが、27万人の反対署名が提出されたりした。区別は差別だと言って、林間学校で男女が一緒に寝たり、トイレの表示の色を同じにして混乱がおきたり、小学生にセックスのやり方を教えるなど、とにかく非常識である。それを東京都がチェックして116人の教師が処分されたら、このことで教育の機会が奪われたと言って、8000件の人権救済申し立があった。(こういうことになってしまう) ?議員 ○内閣府に置くべき。人選については、団体というのは懸念があるので、個人ベースにしてほしい。 荻生田光一議員(反対派・衆・東京24区) ○古川・城内議員の意見を精査してほしい。不透明な人選をやめてほしい。 ○人権団体かどうかの判断は、誰がやるのか? ○「当該委員会の意見を聞いて」とあるが、曖昧である。 森岡正宏議員(反対派・衆・近畿比例) ○人権があまりにも広く捉えられている。山谷さんのご指摘のように、悪用されている。 ○教科書の問題に自分は取り組んでいるが、地元では「人権問題を扱っている教科書 は○○だからこれを使え」という圧力がかけられている。 ○このままこの法案を上にあげることには反対だ。よく吟味してほしい。 古屋圭司議員(反対派・衆・岐阜5区) ○この問題について、かつて真剣に議論してこなかったことを反省している。 ○具体的な指摘があったのだから、考えるべきではないか。 ○理想的に運用ができないという指摘があった。納得できる案を出してほしい。 ○このまま法案を出してほしくない。メディア問題は、本来この問題とは違うことだと思う。 田中議員 ○趣旨としては、国家的な救済ルールなのだろうから賛成だが、具体的な事例を挙げて附則すべきだろう。 ○訴えられて何でもなかった人のことをどうするのかは、大事な問題だと思う。 衛藤晟一議員 ○児童虐待や外国人のことなど、各論的に検討してほしい。山谷さんの人権は愛と慈しみと切り離せない、という言葉があったが、愛と慈しみがこの法案からは感じられない。 ○偉そうに上からやるととんでもないことになる。今の法体系でやれないことを挙げてみるべきだ。 古屋圭司議員 ○司法制度で不十分なことをまずやってみてほしい 亀井郁夫議員 ○広島は困る。光が見えたのに、本当に困る。自民党は壊滅してしまうだろう。 ○法案を急がなくてもいいじゃないか。 法務省 ○指摘いただいたことを検討する。 古賀誠議員 ○たくさんの意見に、法務省は文書で答えてほしい。スケジュール的に今国会で、とやってきた。 ○先生方にそれを承知してほしい。上にあげて委員会で修正しながら妥協点をみつけたい。 衛藤晟一議員 ○部会の中で検討しなきゃおかしい。 古賀誠議員 ○議論してるじゃないか。 部会長 ○委員会の審議で行えばよい。 多数の議員 ○それはおかしいじゃないか。 部会長 ○法案として出させてほしい。 古屋圭司議員 ○3月中旬をこえても出したケースもあるのだから、出すのは先でもいいじゃないか。 ○異論のある中で出すべきではない。真摯な議論をすれば野党も納得するだろう。 古賀誠議員 ○是非提出させて下さい。 部会長 ○手続きとしては出させてほしいという古賀さんの意見だがどうでしょうか。 大勢の議員 ○平場でこれだけの意見がでてるんだから。 部会長 ○政審の場に出させてほしい。 大勢 ○だめだ。 城内 実議員 ○(法務省に向かって)「曖昧とはいかがなものか」といっただろう!人権侵害だ!(と机を叩く) 笹川 尭議員(推進派・群馬) ○これで総務会にもって行かれても困る。金曜日か火曜日に部会を持ったらどうか。 部会長 ○では、今日、政審にもっていくのはやめる。散会。 |
| 金 美麗 評論家 別冊正論 05 ・不思議なことに、人権や人道を日頃国内で主張する人たちほど、北朝鮮国内の弾圧を直視しょうとしない。また拉致被害者に対して冷淡でもある。コメ支援が北朝鮮の民衆を救うことにつながらず、金正日の独裁体制の延命に手を貸していることは、現地で難民支援に当たっているNGO関係者の指摘するところだ。それは蒋介石が白色テロで台湾人を弾圧し続けたにもかかわらず、看過したのと同じ構図である。台湾はその後、李登輝氏という稀有の指導者が出現したことで民主化し、もはや自由を求めて国外に脱出する必要はなくなった。 |
| 吉崎富士夫 千葉 49歳 会社員 「SAPIO 2007.5.9」 「戦略的互恵」関係と言いつつ、実効支配できる範囲を、自国の国境と考える、「戦略的辺疆」を国家戦略とする国。 空母や有人飛行できるロケットを持ち、通信衛星を打ち落とすミサイル実験を行い、さらには沿岸部に核弾頭搭載ミサイルをズラッと並べながら、海洋資源を搾取する国。他国に数十年経っても、今なお延々と戦後賠償という考え方を押し付けてくる、恫喝外交を行う唯物論大国。 いずれも隣国の中国の偽らざる実態だ。いくら「過去の戦争の被害者」であるスタンスを強調したところで「未来の戦争の加害者」になる準備を、肯定できる理由にはならないはずだ。限りない軍拡の果てに出てくる隣国との緊張は、日本にとって最高度の外交リスクだろう。 心ある中国人は聴く耳を持って欲しい。中国こそ、未来志向で国家運営を行なうなら、なんとしても人権意識を確立して、13憶人が平和裏に、自由主義国家の一員に移行できる内部努力を、惜しんではならないと思う。 与えられた時間は、そう多くない。 |
| ペマ・ギャルポ 桐蔭横浜大学教授 「正論6月号」 平成19年度 「中国に抹殺され続けるチベット人社会」 容赦なき人権弾圧がなぜ見過ごしにされるのか <17歳のチベット人尼僧を撃ち殺した中国兵> ペマ:天安門事件のショッキングな映像が流れたことで、世界の人は、中国人が外国人だけでなく、自国民に対しても無慈悲なことができるのだ、と気付いたのです。 ペマ:日本以外の政治家や団体は動いたと思います。特にアメリカやEU諸国は、敏感に反応しました。(中略) ところが、日本を含めたアジアの反応は鈍い。日本のメディアは、中国の経済的な発展は積極的に報道しますが、その裏で、さまざまな人権抑圧や少数民族への弾圧が行われていることをほとんど伝えていません。 ペマ:国内では、むしろ、人道主義というかユートピア的な要素というか、ある面において人権意識に拘る人たちがいるのに、そういう人たちが国際社会で起きていることには「鈍感」なのです。中国やミャンマーで行われていることに寛容であるどころか、むしろ加担するような行為をしている。これは「大きな矛盾」だと言えるのではありませんか。 ぺマ:中国への同化政策をより一層、強めるため、経済的侵略の道具として、鉄道が利用されることになるでしょう。 <今はむしろ若者の民族意識の方が高い> ぺマ:鉄道完成は、中国にとって、植民地政策の総仕上げの意味があると考えています。 ぺマ:中国人をどんどんチベットへ移住させ、同化政策を進めることによって、チベット人の文化や民族そのものを抹殺しょうとしている。チベットの主として、チベット人がやっていけないように、持っていこうとしているのです。 ぺマ:「お前たちは中国人だ」と言われながら、毎日の生活の中では、中国人と差別されていることを感じているからだと思います。だから、チベット人としてのアイデンティティを強く持つ、という方向に向かうのです。(中略) 抑圧的な社会であることは変わりがないのですが、直接的な弾圧ではなく、中国人を移住させて、同化政策の既成事実化を図り、ジワジワと真綿で首を絞めるようなやり方です。 <北京オリンピック開催までに「何かが起きる」> ぺマ:厳しいといっても、それは対等平等の関係です。彼の政権が国民に支持されたのは、そうした外交姿勢が評価されたからでしょう。 ぺマ:ネパールが中国の圧力に屈したことはすでに触れましたが、インドに対しても、国境貿易を通じて、チベット問題を政治問題化しないように、うまく誘導しています。相手に対して、「もっと大事なことがあるでしょう」と囁きかけるやり方です。日本に対しても同じようなアプローチをしていることに、日本人は気付かねばなりません。 ぺマ:中国には、いくら譲ったところで効果はありません。それよりも、インドなど、ほかのアジアの国との関係を良くすることに力を入れるべきです。 二つ目は、自民党は、公明党と連立与党を組んでいる限り、独自の政策を打ち出すことはできません。他の保守勢力と組むことも視野に入れるべきだと思います。 三つ目は、日本の相対的な力が落ちてきていることです。格差が拡がり、一部の人たちだけが豊かになっている。また、国力を決定づける先端技術についても、日本政府は守ろうとしていません。中国はそれを必死でやり、他国の技術を何とかして盗もうとしています。このままでは、にほんという国は、地図上は残っていても、実態はなくなる、ということにもなりかねません。今こそ、外交問題や国を挙げて技術力をアップさせることに取り組む必要があるのです。(ペマ・ギャルポ 桐蔭横浜大学教授 「正論6月号」 平成19年度) |
| 殿岡昭郎 元東京学芸大学助教授 「正論6月号」平成19年度 「中国に五輪開催の資格なし」 人権蹂躙を何とも思わぬ国が“平和の祭典”とは笑わせる 一 多民族国家・中国の民族的実 二 共産主義・漢民族政権がチベットで行ったこと ・チベット亡命政府情報・国際関係省発行の『チベットの現実』は、中国侵略とその後の虐待による死者を120万7,387人としている。その内訳は、戦闘による死者43万2,705人、刑死15万6,758人、拷問死17万3,221人、餓死34万2,970人、自殺9,002人、障害致死9万2,731人である。 (一)侵略と戦闘 (二)刑務所と強制収容所 (三)民族文化の破壊 三 北京に資格なし、では東京は・・・・・ |
| 古森義久 産経新聞ワシントン駐在編集特別委員 「中国=人権偽装帝国の闇」、(諸君平成19年9月号) スーダン政府の大虐殺に加担する中国 「アメリカ議会は『北京五輪ボイコット』も辞さない」 −資源に目がくらみ、「世界最大の人道危機」を招き寄せる中国に、平和の祭典を開く資格などない− <五輪ボイコットも辞さず> |
| 人権討論会 「WILL-2008年3月号」 「人権保護法で誰が得をするのか」 馬渡:人権を逆手にとって、ある特定の人達が政治的に個人を攻撃できるような機関にもなりかねないですからね。私はそれが一番怖い。 編集部:なぜはわざわざ在日の人とか、日本国民以外の人まで委員に推薦できるようにしてある。 稲田:本来裁判所で判断すべきものを、人権委員会が行うのは、問題だと思います。(中略)申立が仮に全く根拠のない無茶苦茶なもので、こちらに全く非がなかったとしても、ものすごくエネルギーを使いますから、申し立てられた側の人権侵害に繋がるんです。 赤池:人権侵害について平成19年に政府が世論調査をしたところ、「人権侵害の内容とは」との問いに、「人の噂、陰口」との答えが47.4%プライバシー侵害が25%、名誉毀損が20%と続いていますが、日本人にとって人権侵害とは多くが「噂、陰口」なんです。 西田:基本的人権は普遍的なものであると教わりませんでしたか?しかしそこに問題があるんです。もし普遍的な価値観が認められるなら、北朝鮮の人々が「自分達の国は疲弊しているから、人権を尊重して日本に住まわせてくれ。あんた達は何千年もここに住んでいるのだがら、少しくらい譲ってくれてもいいでしょう」と言われたときに断る理由がないんです。 しかし人権というのは日本人なら日本人の、というように国民ごとの(国民だけの)人権がある。それを画一化して、法律化したらおかしな話になる。 赤池:国連の勧告に基づく、独立した人権擁護機関が必要だというのが推進派の言い分ですが、実は擁護法案を通さなくても現行法で十分対応できるんです。 馬渡:ここは日本で、日本人の国なんですから、これまで上手く社会を回してきた社会規範意識でやっていけばいいのに、それを法律でがんじがらめにしてしまうと、日本の美点を壊してしまうように感じます。 |
| 「偽の国」から「義の国へ」 1.偽と虚に覆われる日本 <「真」と「実」は背後に> 2.「改革」のもたらしたもの <大衆扇動政治への移行> 大衆に媚び、大衆の喝采を浴びるためにわざと大衆迎合政策を行うという意味でのポピュリズムとは違っている。 むしろ、「デマゴーグ政治=大衆扇動政治」というべきであろう。大衆世論というものをいわば人質として確保して、それによって自民党と言う政党を強権支配してしまう。だから、目的は依然として政党への影響力であり、その意味では政党政治には違いない。しかし、その手法は、「民意」を反映するという名目で直接民主制的な要素を多分に持ち込んだものであった。 だが「民意」とは何か、といえば、経済財政諮問会議をリードする民間人や「改革派」のエコノミストやジャーナリストをふんだんにマスメディアに登場させることによる政策宣伝の結果というほかない。 <独り歩きする民意> 政治家は「民意に従う」ことにして、ある政策を唱える。ところが、多くの政治家がそれを「民意」と述べることで実際に「世論=民意の表明」が生み出される。こうして「民意」なるものは実態をもたずに、この循環構造の中で「偽装」されてしまうわけだ。かくて、「民意」という「虚」のものが生み出され独り歩きする。 3.戦後日本の「偽」 <米軍の庇護下の平和> 平和憲法の制約がある以上、このことはアメリカの軍事力の傘に編入されることを意味していたのも致し方のないことであった。 <忘れてはならない「半人前国家」> つまり、「義」よりも「利」へと人々の関心は向かっていったということである。 <敗戦による主権喪失> ・憲法にせよ、戦後民主主義にせよ、個人の基本的権利にせよ、平和主義にせよ、戦後教育体制にせよ、すべて占領下においてなされた、つまり、日本は主権をもって主体的に、これらのことを実現したわけではなかったのである。 <無条件ではない憲法の原則> たとえば、憲法は、「国民主権」、「基本的人権」、「平和主義」という三つの基本的な原則を掲げている。しかし、これらは決して無条件に正しいものではない。「国民主権」は、国民が、その国の歴史的、文化的コモンセンサス(共通感覚)にのっとった判断をする限りでのみ正当なものとなるし、また、「法の支配」と「国民主権」は、そのまま両立するものではない。国民主権は常に「法の支配」によって制限されているのである。 「基本的人権」も、それが一定の義務や人柄によって支えられた限りで有意味となるに過ぎない。権利は、もともとは一種の「特権」であった。「特権」はそれに値するものに対して与えられたのである。もし今日のように、すべてのものがこの「特権」を与えられるというのなら、すべてのものがその「特権」に値するものとならなければならないであろう。それは権利をもつものの義務なのである。 「平和主義」についてはいうまでもなかろう。そもそも、西欧型の近代的な人民主権の憲法の理念からすると、国民はむしろ自国の防衛に対して平等な義務を負う、というのが通例なのである。そのほうが近代国家の論理に従うものであり、民主政とも適合する。近代憲法の枠組みで平和主義を実現しょうとすることはきわめて変則的なことというほかない。しかも、「平和主義」の理念が、基本的には前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し」を受けてのものであれば、「世界が平和である、という仮定のもとで武力を放棄する」と述べているわけであり、こうした一方的な想定による(しかし現実にはこの前提が崩れている)「平和主義」を無条件で受け入れることは無謀なことであろう。 国民主権、民主主義、自由・平等、人権、そして憲法という理念は、すべて西欧社会がその独特の歴史のうちに作りだしてきたもので、それを無条件に受け入れることは可能なのかという議論はありうるのだ。しかも、当の西欧においても、それらの理念については未だに論戦が続いている。仮に、それらの理念が、近代社会を組み立てる基本にある「手段的価値」としてかなり普遍的であるにしても、その具体的意味や了解はその国の歴史や文化や価値によってなされなければならない。そこではじめて議論が可能となる。 <失われた義> ポツダム宣言が日本の軍隊の無条件降伏を求めただけであったにもかかわらず、日本は主権を放棄するという全面的な無条件降伏を行ったように、本来、価値や文化についての無条件降伏などはありえないにもかかわらず、マッカーサーは、「日本的価値」を封建的なものとみなしてその一掃を図ろうとした。これは無茶なことである。だが日本は、「日本的価値や文化」のほぼ無条件降伏を認めてしまったのである。かくて、「日本的な価値」=封建的で特殊的、「アメリカ的価値」=近代的で普遍的、という戦後の精神が生み出されてしまった。 屈辱とはこのことをいうのである。当然ながら、日本的価値や文化を維持し尊重する、という有条件降伏であったはずのものが、精神にまで踏み込んだ無条件降伏になってしまったのであった。日本政府は、ただ、日本的価値として「天皇の地位」の保全のみを事実上の条件とみなしただけであった。 <高度成長による現状追認> ・義を背後にもたない「利」はとどまるところをしらず堕落する。(中略)したがって、「義」を失えば、日本人のもつ公共意識や規範意識はどんどん崩壊してゆくであろう。「利」のみを根底においた発想はからは、公共心も規範意識もでてこない。 <知識人の役割とは> 政治や経済は99匹の「利」を目指すとしても、少なくとも、知識人は1匹の「義」のために書かねばならない、ということである。このように広く深くニヒリズムに覆われた時代であればこそ、日本人の「義」がどこにあるのか、それを思い起こさせるのが知識人の仕事だと思うのである。日本は「偽の国」ではなく、「義の国」であったはずなのだから。(佐伯啓思 京都大学大学院教授 「正論」平成20年3月号) |
| 〈真中行造(HP管理者)の考え〉 「人権擁護法案」が緊急に必要なのは中・韓・朝・露の方である。古賀氏・大田氏・部落解放同盟は提出先を完全に間違っている。我が国にとってはこんな法案は「人権侵害法案」であり、必要なのは二度と拉致被害者を出さない為の「スパイ防止法」である。(真中)。 〈真中行造(HP管理者)の考え〉 「人権擁護法案」が緊急に必要なのは中・韓・朝・露の方である。古賀氏・大田氏・部落解放同盟は提出先を完全に間違っている。我が国にとってはこんな法案は「人権侵害法案」であり、必要なのは二度と拉致被害者を出さない為の「スパイ防止法」である。(真中)。 <成立した場合、到来する国家・社会> 1.自由と民主主義を、つまり「自民党」自らを否定する法案を何故自民党が提出するのか。自民党内の非自民党員が出しているからだ。 2.口では人権人権といいつつ、部落解放同盟がやっていることは自らの利権の拡大と、国民の人権弾圧、売国的行動ばかり。 3.莫大な数の人権屋たちの利権と就職先を確保するため、国民の税金を毟り取るとるために画策されている法律。 4.人権委員会という三権分立に違反する、日本国民を弾圧する、非日本人の巨大秘密思想警察が誕生する。 5.「平等」という名の人権主義が推進する聖域の廃止は、必ず天皇制の廃止へと繋がっていく。日本がなくなり中韓朝露のような国になる。 6.第1条に「国家・社会」と書かず、「社会」だけしか書いてないのは国家解体を画策しているから。実体は『反日・反国家活動助成法』。 7.人権擁護法は国籍無き『非日本人』が日本人を攻撃する法律。部落解放同盟が決めた正義が日本国の正義となる。 8.男女共同参画社会基本法に続く、フランクフルト共産主義革命法案。画一的な暗黒社会を招く左翼全体主義法案。 9.人権擁護法は「人権“侵害”法」である。盗聴、密告、監視、糾弾社会が到来する。言論の自由がなくなる。 10.万人が万人を人権侵害で訴えなければ生きてゆけない「人民裁判」が横行する社会。個人感情を基準にしている法律である。 <中学校の社会科公民的分野の教科書の人権の定義自体おかしい!> 「私達は、誰でも自由で豊かで幸せな人生を送りたいと願っている。そのような人生を過ごしていく為には、かっての家族制度の中にあったような、男だからあるいは女だからという差別や束縛があってはならない。つまり、人間はあくまで一人の個人として尊重されなくてはならないのである(個人の尊厳)。 人間尊重の社会においては、お互いを人間として尊重すると同時に、お互いの願いを尊重することも大切である。自由でありたい、平等に扱われたい、幸せになりたいといった人間としての自然な願いは、同時に私達が生れながらにして持っている権利と結び付くものであり、このような権利のことを”人権”と呼んでいます」 <人権を表裏一体の関係でとらえると> ・人権VS道徳:道徳が人の心の働きを規制・抑制するものであるなら、人権は心の働きを解放するもの。 ・人権VS義務: <平等(差別・選別をしないこと)を教える人権教育は正しいのか> ・人権には「軽重」がある。最も重視されるべきは生存権である。 ・人権には「上下」がある。犯罪者の人権と被害者の人権は同等ではない。 ・人権は「平等」ではない。個性・能力差・国民と外国人(非国民)等を考慮せざるをえない。 ・結果の平等よりも機会の平等を。そもそも平等などあり得るのか。 ・それぞれの権利というものは、共同体の歴史・伝統・文化から来る限界なり、制約を受ける。権利というよりは、そこで生活する人間の意識なり、またそこでの考え方なり、それぞれの人間の暮らし自体が、こうした社会の存在に規定されるものである。 <人権を関係性で捉えると> ・個人と個人 ・個人と集団:国家がなければ権利は成り立たない。が、人民に権利を保障することができない国家なんてものは、国家とはいえないものである。公共の福祉。人権Vs国家の刑罰権。 ・民族と民族 ・民族と国家 ・国家と国家:コソボは独立宣言できたが、チベットは独立宣言すらできない。 <人間の成長との関連で捉えると> ・子供の権利Vs親権 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- <つくる会のメールより> こんにちは平岡です。 人権という概念そのものが間違っているのが根本の問題とおもいます。 人権は個人の尊厳を守る手段として定義されています。問題は、「個人」のところにあります。キリスト教、欧米諸国における「個人」とは、英語でいう「I」、仏語でいう「Je」、独語の「Ich」。絶対神と直接1対1でつながる「I」、絶対的な「I」のことです。 それはそれでいい感じなのですが、日本的な「わたし」との対比でいうと、次のようなものが欠け落ちています。 −ご先祖とのつながり −家族とのつながり −社会的役割 −さまざまなご縁 −ヲヲヤケを大切にするという気持ちや行動 −自分を治めるということ −おもいやり −自分以外のものの幸せをよろこぶこころの広さ 日本的な「わたし」とくらべれば「I」というのは、 −孤立していて −意地を張っていて −自分勝手で −感謝を知らず −放縦がほとんどだが、たまに、まともな人もいるというようなものです。⇒「アトム」 この「I」こそを守るべきとするのが、個人の尊厳の尊重という概念です。結果として、必然的に「人権」はいびつなものになります。 もっとも、これではこまるので、欧米では、キリスト教によって、ヲヲヤケや社会性を担保しています。 我が国の場合、キリスト教は拒否していますから、個人の尊厳の尊重のみになります。戦後しばらくの間は、道徳心によって、人権はその正体を剥き出しにすることはありませんでした。しかし、戦前世代の引退とともに、戦後2・3世代の成長とともに、道徳抜き、伝統抜きの「人権」が猛威をふるいだしています。⇒道徳、伝統。 さて、人権概念自体を根絶するのは不可能でしょう。そこで、社会に役立つ形に受容するという、これまでの歴史をつうじて、儒教や、仏教、キリスト教などを受容したのと同じように、換骨奪胎する必要があります。いかに受容するかですが、日本の古来の知恵の中に発見するというのが、保守の基本であると思います。そこで、いろいろ探してみると 「人の道、人道」という言葉を見つけることができます。 一般人が、人権弁護士にいだく違和感は、まさに「人道」に反しているからではないでしょうか。 「人権擁護法案」ではなく「人道擁護法案」は大多数の国民の賛同を得ることのできるものでしょうし、「基本的人権の尊重」は、「人の道に関わる基本的な権利=人道基本権」とでも改名する、あるいは正しい名前に正名することが、明治以来の思想的混乱を収束させる民族の知恵ではないかとおもいます。 憲法の第3章は、「人道の尊重」という観点から、どの権利が行き過ぎていて、どの権利が欠けており、また、どの権利は「義務」でしかないものを「権利」と転倒させているのか検証する必要があります。 途中の成果でしかありませんが、日本青年会議所では、憲法草案として、第3章にもメスを入れ、検証した結果を書かせていただきました。ご参考まで、お目通しいただけましたら幸甚です。 http://www06.jaycee.or.jp/2006/modules/tinyd14/index.php ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- お返事 いわゆる「人権」に付いて 1)権利には、一般的なものとして 人間の権利(人権)と、 個別的なものとして 女性の権利(女権)・子供の権利(子権)・親の権利(親権)・労働者の権利(労権)・その他が有ります。 「人権」とは、何か特殊なものではありません。 2)人間の権利 は二つに分かれます。 基本的人権・・・犬や牛などと異なる、基本的な人間としての権利 です。これは最も基礎的なものですから、ほとんど義務を伴いません。例として、憲法には「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が有ります。初等教育を受ける権利や選挙権なども含まれます。(先進国では概ね保障されて居ます) 一般(上位)的権利・・・基本的の上に有るより高度な権利です。従って通常は義務を伴います。例として 健康で文化的なより高度の生活を営む権利 が有ります。先進国で重要視されています。中・高等教育を受ける権利や被選挙権なども含まれます。 3)単語の意味も分からずに、自らの稚拙な教条や利権の為に、「人権」を振りかざす人々が居ます。新社会・共産主義や人権主義の人々です。世の中には「人権」と同等か、これ以上に大切なものも有ります。常識・良識・公正さ・倫理観・基本的な生活習慣・その他です。彼らの虚偽・愚論に惑わされない様にしましょう。付け加えると、彼らこそ人間の権利を粗末にしている人々そのものです。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 岡本先生、河村様 励ましありがとうございます。 「わたし」と「I」の違いですが、日本語の根幹の部分にも垣間見えます。受け売りですが、日本語の場合、自称の人称代名詞があまりに沢山あるというのが特徴です。英語なら「I」だけですが、 わたし、わたくし、ぼく、おれ、われ、てまえ・・・というだけでなく、相手が小さいときはさらにパパ、お父さん、先生・・・なども自称代名詞になっております。これは、日本語におけるアイデンティティは、相手との関係性、もっとわかりやすくいえば、「役割」によってなりたっていることを示しております。 これまで、このような現象は、後進性の現れや、自己の未確立と評されて来たものです。しかし、決して無原則に使うわけでもなく、上記のような言葉で表しているそれぞれの自己の集合体が、日本語における、また、日本民族における「わたし」に他なりません。 世界中の言語に、「おもいやり」に相当する語彙が乏しいとか、いうこともあながちこの「わたし」と「I」の違いと無関係とはいえないでしょう。 われわれは、日本語を使いはじめた時から徹底して、毎日、毎瞬間、「わたし」は「I」ではないということをトレーニングしています。 #このあたりのことは、「なんとなく日本人」に詳しいです。 http://www.amazon.co.jp/dp/4569649874/ 古文書を研究してみて、日本語の「わたし」の語源には、さらに深い意味がこめられていることも発見しました。わかっていただけるかどうかわかりませんが、「わたし」とは次のような意味の言葉です。 わ・・・ 東西南北という四方が定まり、同時に、中心が定まる。国家の次元でいえば、私を去られた天皇がおられて国家の秩序が成立する。 個人の次元でいえば、アイデンティティが定まり、ヲヲヤケをまもり、カミや天皇陛下に感謝をささげる。そのような秩序。それが「わ」 た・・・ 「わ」を「たす」ということ。 し・・・ 「たす」とは「治す」こと。即ち、そのような状態に治めるということ。「し」とは、これから治めるということではなく、治めたということ。 以上をまとめれば、「ヲヲヤケを大切にするという本当の意味の大人であるということ」、それが「わたし」の語源です。 それゆえ「わたし」には −ご先祖とのつながり −家族とのつながり −子孫とのつながり(抜けていました) −社会的役割 −さまざまなご縁 −ヲヲヤケを大切にするという気持ちや行動 −自分を治めるということ −おもいやり −自分以外のものの幸せをよろこぶこころの広さが含まれることになります。⇒縦軸と横軸。自分だけでなく全体。 日本的な「わたし」とくらべれば「I」というのは、 −孤立していて −意地を張っていて −自分勝手で −感謝を知らず −放縦がほとんどだが、たまに、まともな人もいるというようなもの。おそらく、中国や韓国においても、この「I」モデルだと思われます。 中国では、儒教によって「I=我」を制限していましたが、共産革命によって儒教は崩壊し、その結果、剥き出しの「我」がいま、大陸を覆っています。中国における「道」すなわち「タオ」というのは、その剥き出しの「我」のことであると思われます。我々が幻想としていだく仙人の道ではなく、欲望=道といのがどうやら彼らの「道」観のようです。⇒人権=我を張る。 中国人に、「茶道」とか「人道」といってもまったく通じませんでした。「道理」という言葉も、まったく意味をなさないようでした。 「道理」というのは、江戸時代の日本人が発明した言葉のようです。この「道理」に近い英米法の概念が、「Low」。小文字で書く「row」ではなく、Common Lowというときの「Low」です。法律用語で「法」と言っているものです。 法律の専門家でない我々に、法と法律の違いといわれると、何がいいたいのかわかりません。しかし、「道理」と「法律」の違いであれば、わかります。英米法のCommon Lowとは我々の「道理」に相当程度近いもののようにおもわれ、しかも、おそらく、Common Lowよりも「道理」のほうの 完成度が高いと思われます。 先に紹介した、日本青年会議所の憲法草案は、悠久の歴史を誇る我が国の憲法は、本来「不文」で十分なのだけれど、あえて成文化するならということでひねり出したものです。現在の日本国憲法と表面的には似ているが、中身は明治憲法(正確には、松本試案)を基礎においています。そして、はっきりとは書いてありませんが、大陸法体系となってしまっている我が国の法体系を、「道理」を根幹においた、英米法の体系に転換することも意図して紡いだものです。 ------------------------------------------------------- ◇ ---------------------------------------------------------- 徳永です。 「人権」については、その根拠についてのコンセンサスがありません。このことは大変大事なことです。 超越的な自然法を根拠にするもの、普遍的な理性を根拠にするもの、社会契約を根拠にするもの等、いろんなアプローチがとられてきましたが、いずれも成功していないと総括してもいいと思います。 昨年亡くなったローティのように、「人権の根拠は問わない。それは在るものであり、人権文化の拡大が重要である」とする哲学がそれなりの支持を得てきたのはそうした背景があります。 「人権」が歴史的に形成された「文化」であると考えるとき、「人権」の普遍性と正しさは、歴史性と文化に依存することになります。「人権」は絶対的なものではなく相対的な正しさを有する文化の一つということになります。 歴史的にみれば、「人権文化」には、2つのルーツがあります。1つは、フランス革命における「人権宣言」です。もう一つは、イギリスにおける「権利章典」です。前者の「人権」は、革命の論理であり、旧体制を否定する理性の言葉でした(フランス革命が理性神という人造の神を崇えるイデオロギー的側面を有していたことはご承知のとおりです)。他方、後者の「人権」は、ブルジョアジーが支配者を相手に歴史的に確認してきた既得権であり、伝統的な利権でした。 「人権」概念を換骨奪胎するという平岡様の戦略に賛成です。それは、フランス革命的「人権宣言的」理性の法に基づく「人権」から、イギリスのマグナカルタに由来する歴史的伝統の法に基づく「人権」へというパラダイムシフトによって得られるものだと考えてきました。「人権」の揺り籠とされてきた「法の支配」という概念は、理性(王)は、慣習(民衆の掟)の下にあるという格言です。「王は理性なり、しかしながら、その王といえども、わたしたちの法(掟と慣習)についてはご存知ない」。 哲学的蒟蒻問答を離れ、国際政治の現実をみると、世界人権宣言等の国際人権条約は、「個人の尊重」ではなく「人間の尊厳」を人権の根拠規定としています。そして人権の制約原理として「公共の福祉」ではなく、「公共の利益」「公の秩序」「道徳の保護」を挙げています。すなわち、人権は道徳によって調整されるものだということが人権の国際的理解として通用しているということです。 結論を急ぎますが、結局のところ、「人権」の普遍的根拠として国際的な政治的コンセンサスが得られるのは、せいぜい「人間性というものを大事にしよう」というところに求めるしかなく、「人間性」というものの把握において、「理性的自律」を強調して見るのか、「文化的形成」の側面を強調するのかという問題に収斂されるように思います。 そして「人間性の尊重」というところまで、「人権」の議論を下ろしてきたとき、「人間」の本質をなににみるかという議論が可能になり、「思いやり」や「世間様」や「ご先祖様」といった個人に先行する「人間形成」にとって不可欠な歴史的形成物の尊重という方向性を、「人権」の議論のなかに折り込むことが可能になるのです。わたしたちの人間性が、歴史的形成物(道徳、慣習、文化、市場)によって成立しているということは、「言語」という歴史的文化が、個人の生命を超えて存在していることが不可欠であることに思いを致せば、誰にも分かることです。わたしたちは、その思考もまた、「言語」に依存しています。文字を持たない社会はありましたが、言語を持たない人間社会はありません。 以前、板谷様との論争で議論した「我れ思うゆえに我あり」のコギトを「言葉あり、ゆえに我思う」に転換したとき、近代個人主義の呪縛から、解放されるのだと言ったのはそういうことでした。 「伝統主義」の復権は、「人権」の旗を、「革命」(設計的合理主義)陣営から、「伝統」(歴史的文化尊重主義)陣営に取り戻すことによって実現します。明治維新において、錦旗の争奪が、維新の成否を決定づけたように、21世紀の日本における近代最期のパラダイム闘争の勝敗は、「人権」の旗をどちらが有するかによって決定づけられると考えています。以上 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永先生 ありがとうございます。 そうですか、国際人権条約においても、「人間性の尊重」という概念でくくられているのであれば、勝機はありそうですね。 「人間性」とは何かについても、古文書にはシンプルな定義が述べられています。 ヲしゑぬものは トミならず ヲしゑうけぬは タミならず この場合の「ヲしゑ」は、ヲヲヤケを伝えること、ヲヲヤケを踏まえた教えのことです。 「タミ」とは、 「た」・・・様々な人があつまったということ 「み」・・・そのような人が素直に秩序をうけいれてひとつになったということ ということで、その出自は問わないが、ヲヲヤケを受け入れたかどうかが、「タミ」かどうかの境界線です。そして、この場合の「タミ」は「ヒト」と同義です。先のメールでいえば「わたし」のことですね。 記紀においても、「ヒト」でないものは、土蜘蛛だとか散々な呼ばれ方をしています。 3種の神器(マガタマ、カガミ、ツルギ)のうち、ツルギは、ヲヲヤケを尊重しない悪人のみを撃つために作られた、と古文書には逸話付きで述べられています。 どうも我が国は、ヒトがヒトたるための営為を太古の昔からつづけ、伝えてきた御国のようです。そして、その筋道こそが「ミチ」であり「ヒトのミチ」であるようです。 「21世紀は人権の世紀である」とは、とんでもない話ですが、「21世紀は人道の世紀である」ということであれば、「21世紀は日本の世紀である」ということを意味しています。 一人でも多くの方がこの国の真実の姿に気づき、我々の祖先の声に耳を傾け、額づく日が来ますように。 あなかしこ あなありかたや ミハタを取り返す。いい言葉ですね。この戦いには、皇国の興廃がかかっている。 ミハタを取り返す。近代啓蒙思想・リベラル主義という賊軍から。 憲法を取り返す。近代啓蒙思想・リベラル主義という反日たちから。 み国に幸あれ ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永です。 わたしの保守思想は、自由主義者のハイエクに大きく依存しています。欧米の思想をもち出するは徒な衒学趣味というわけではなく、「人権」という文化が近代西欧文化の産物だからです。「人権」を批判するとき、西洋の思想をもってする方が噛み合うからです。 ハイエクは、伝統、道徳、市場、言語、文化、礼節といったものを、「自然でもない、人為でもない」《第3の領域》と表現しました。それは人間がつくったものには間違いないという意味で自然ではありませんが、個人が創ったり変えたりすることのできないものだという意味において人為でもありません。そして、ハイエクは、「およそ個人を人間らしくするものは、この第3の領域に依存する」と言います。わたしは、この見解に全面的に賛成しています。ハイエクのいう市場や社会において自然に形成される「自生的秩序」と優秀な官僚の手になる「設計的合理主義」による「法」の違いは、「人権」の考察においても有効です。 わたしが主張している戦略は、普遍的「人権」という近代のアイデアを、この「第3の領域」に基礎づけるということです。実際のところ、欧州における「人間の尊厳」は、キリスト教倫理と結びつき、隣人愛と共助の精神のことと言ってもいいくらいです。日本の文化的伝統が形成してきた「人間らしさ」が、「ご先祖様」と「世間様」の尊重によって育まれてきたことを思う時、日本における「人権」尊重の文化運動は、必ず日本的な文化的土壌に目を向ける新たな国学につながるものと確信しています。 「人権」の旗は、決してサヨクのものではありません。わたしが学生だった頃、先鋭的左翼人は、しきりに「人権」は、ブルジョアジーのイデオロギーであり、打破すべき体制であると主張していました。共産主義者は、新しい理想社会の実現のためには「人権」という歴史的構築物を否定しなければならないことをよく知っていました。 人権擁護法案が議論され、《「人権」とは何か》に世間の関心が集まりつつある今、このことを伝統復帰の運動論と結びつけて自覚的に論じる絶好のタイミングではないかと考えています。以上。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永です。 人権のことは、ずっと考えてきたことでした。どう考えるのが、正しいのかという哲学的議論と同時に、大衆に訴えることができる政治的議論が必要だということを考えてきました。「戦略」という言葉を用いるのはそのためですが、「人権擁護法案」がそうであるように、「人権」は、サヨク陣営が、その哲学的議論に先行して政治的な主張の旗印にしてきました。そこでこれに対抗するための「人権」を語る保守派の政治的言語が必要になっているのです。 わたしの基本戦略は、小菅様が言われる「人権よりも大切なものがある」や平岡様が言われる「人権よりも人道の尊重」という語り方では、サヨクの「人権」の論理−なによりも人権が大事−に勝てないのではという政治認識に立っています。 倫理、道徳、市場、言語、慣習、礼節、伝統、文化・・・という《第3の領域》の存在を、「人権」に対立させるのではなく、「人権」そのものとして語ることが有効であり、本質に沿っているのだと考えています。また、事実、欧米では、「人権」はそうした捉え方をされているからこそ、それは「正義」(right)であり、普遍的道徳と互換的なのです。⇒批判を人権侵害と牽強付会している。 「人権」概念に深刻な問題をつきつけたのは、やはり宗教問題でした。イスラム教が女性の行動や振舞いに男性と違う制約を課していることを人権侵害として捉えるのは、文化相対主義に反するという反省です。イスラム教を人権に反する宗教だと捉えることは、人権が保障する宗教の自由に反するというジレンマです。そして「非宗教」という概念もまた、無神論、唯物論の「世俗主義」という世界観と結びついたイデオロギー宗教ではないかという反省が、政教分離の考え方に反省を求めています(中立的な宗教や思想などなく、思想や宗教からの逃走は、リバタリアン的ニヒリズムでしかありません)。共産主義が、階級闘争史観というイデオロギー宗教を公理とする社会であったことはよく知られています。これらのことは「人権」の相対性をわたしたちに突きつけています。 「人権」を「伝統」と結びつけて論じること、これが「人権」をめぐる政治的議論を支配する方法であり、保守の戦略だと信じるゆえんです。伝統や道徳が、なぜ大事なのかという議論を、「人権」の根拠だからとし、人権のトートロジーの軸に伝統と道徳を置くことによって議論を制するという戦略です。以上 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永先生 私の書きましたものは、10年程度のリードタイムのある話ですので、短期的には、先生の戦略でいいのだと思います。ただ10年くらい先に、「人権→人の道」に着地できるように戦略を設計いただけましたら有難いです。 わたしのイデオロギー上の立脚点は、バークということになるかとおもいます。 ただ、「人権」というのは、言葉として「ジンケン」ってな感じのカタカナ語なんですよね。大和民族にとっては。結局ぴんとこないので、知識人の戦いになってしまう。「ジンケン」を「人と権」に分解しても何がいいたいのかわからない。「権とは権利」だとなっても「権利」が何かわからず「権力と利益かな」程度が関の山です。 「人道」をお薦めする理由は「ジンドウ」のレベルでも濁音を消せば「シントウ(神道)」ですし(笑)、分解して「人の道」にすれば、その時点でヤマト言葉に還元でき、みなが一発でわかります。 そして、日々の「人権」にまつわる訳のわからないいらだちが、「あーー、道理で」と氷解する。そういう、爽快感のためでもあります。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永先生 追伸 先生の言われる「第3の領域」は、古き言葉では「ヲヲヤケ」といいます。また、「自然でもない、人為でもない」というプロセスに目を向ければ「ヲノコロ」といいます。記紀では「オノコロ島」という訳のわからない概念になっていますが。⇒世間様。 最近みつけたもうひとつの切り口は、「持続可能な幸せ」という概念です。革命家たちのいう「人権」では、社会の持続可能性がない、あるいは保障されていない。「人道」の場合は、持続可能性が証明済みであること。さらに、「人権」は幸せのためにあるといわれるものの、どうも追求すれば追及するほど、幸せから遠ざかっているようであること。即ち、人権には「持続可能な幸せ」がないということ。 平等も、人権も、いずれも「幸せ」の実現が証明されていない、むしろそれに反逆する例ばかりがあげられる、偽のカミですね。あんなものを憲法という神棚にあげて拝んでいるわけですから、罰が当たるのは当然だと思われます。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 平岡様 わたしの「人権」戦略の設計は、10年先とはいわず、「人の道としての人権」であり、「道徳と正義と文化としての人権」です。「人権」の中核に「人間の尊厳」を置き、「個人」(理性的主体)ではなく、「人間」(文化的形成物)という概念を歴史的文脈で見つめなおした途端にそうなるという設計なのです。設計どおりに政治が動くかどうかは、やってみなければわかりませんが、そろそろ、動かしてみるときが近いように思います。「人権」という幸福の青い鳥は、日本の外にあるのではなく、日本の伝統の奥深いところにあったというお伽話です。 ジンケンに対する違和感を述べておられますが、外来のものに、なにかわけがわからないがありがたさを期待し、やがて、その内容に、日本人の精神的憧れを投影し、換骨奪胎していくのも、日本人のお家芸であり伝統でした。外来の宗教であった仏教も、キリスト教も、共産主義思想も、結局、日本化・神道化し、戒律や作為のない自然を尊ぶ日本教的風土に飲み込まれてしまいました。西欧の近代文明も料理の伝統も、日本に入った途端に、日本的な洗練を受けて別物になって発展したように思われます。 「人権」もまた同じではないでしょうか。日本の精神史は、習合と分離をくりかえし、ひらがな文化や日本仏教を生み、西欧近代を取り込んできましたが、いま精神史的展開として必要なのは、「人権」と「人間」と「人道」の習合だと感じています。やがて、第2の国学が表れて「人権」における唐心と大和心を峻別するときがくるかもしれませんが、今は、仏教を神道化し、浄土真宗と曹洞宗を生んだ鎌倉仏教的展開に学び、「人権の神道化」を指向するときだと感じています。 例えば、「人間」の普遍性は、「自らを死ぬものと自覚した存在」という点に求めることもできます。「死」の自覚だけが、人間の平等を担保し、他者の生命に配慮し、親子の絆を人間的本質と認識することの出発的になります。個としての生命は、「必ず終わる」という意識こそが、個を超えた「人間」としての生命の自覚につながるのだと思います。その文脈でいえば、「散るさくら、残るさくらも散るさくら」(良寛)といういかにも日本的な死生観を持つ日本人の精神のなかには洗練された卓越したものがあるように感じています。わたしたちは、生命を尊ぶ、「人権」の議論において、死生観を論じる可能性を見いだすのです。 わたしは、甘えたの個人主義者として生きてきました。まさしく「人権」を個人主義の理論武装として使って生きてきました。「個人主義」のインチキをよく知っているつもりです。「個人」という概念も、また、近代理性宗教が生んだ概念なのです。 わたしの「人権論」の出発点は、個人と理性が存立するうえで「言語」という空間的時間的広がりを持つ超個人的存在が必要だという認識と、人間の普遍性は、「死ぬべき運命の自覚」という共通の人間的土壌のうえに成立するということにあります。いずれも、個人の生命を超えたところに、「人間性」の基盤があるという認識です。以上 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 徳永先生 戦略としてどのようにいくのがよいのか。現状の認識はこんなところです。 −戦後教育がいきわたり、大多数の国民は「人権」に何かよいものを見ている −一方で、「人権」を振りかざす人々に、なんともいえない違和感も感じている −「人権」を振りかざす人々は、人々を恫喝してくる恐ろしい人たちである −「人権」に違和感を感じつつも、「人権」に意義を唱えることはできない −「人権」は、革命家・リベラル派に占領されている −マスコミも、知識人も、政治家も、活動家も、大多数を革命家・リベラル派に占領されている というような感じでしょうか。これは、「憲法」や「平和」、「平等」、「政教分離」「民主」も同様の構図です。 いずれにも、単純2元論がひかえています。 人権 <> 非人権 = 反人類 平和 <> 戦争 = 反人類 平等 <> 不平等 = 反人類 政教分離 <> 宗教 = 反人類 民主 <> 君主 = 反人類 憲法 <> 封建 = 反人類 という2元論です。これに対抗するには、いくつかのアプローチがあるはずで、 ・2元論をはなれて、第3の立場を構築する ・2元論の中をくいやぶって、人権などの概念を換骨奪胎する その他でいえば、言論自体を消滅させるなどでしょうか。 人道というのは、前者、すなわち第3の立場を構築するものを狙ったものでしょうし、人権そのものを乗っ取るというのは、後者のアプローチということになりましょう。 食い破るには、理論的にいくしかないでしょうから、徳永先生のアプローチで問題ないのだと思います。一方、第3の立場というアプローチでいくには、知識人だけにわかるキーワードでは無理だと思われます。誰もがすぐにわかるようなものでなければならない。理論路線のみだと、大衆の支持を得るのが可能かどうか。革命家ががなりたてる「人権擁護」のプロパガンダにうずもれてしまわないか。 >−マスコミも、知識人も、政治家も、活動家も、大多数を革命家・リベラル派に占領されている あたりが恐ろしい前提条件です。現在の影響力の大きなものは、TVと新聞ということになろうかと思いますが、産経新聞もリベラル勢力に浸透されつつあります。TVは、朝日的言説がNHK・民放地上波のほとんどを覆い尽くしています。 そこで、一般大衆にわかるアプローチを同時にとっておく必要もありそうに感じます。ブロガーたち、2chラーたちが、いっせいに「人道」「人の道」をPRしてゆく。丁度、嫌韓流が草の根で広がったように、「人道」「人の道」をヨリシロとして広め、認識に上げないといけない。 その上で、望ましい戦略というのは、前者のアプローチ=後者のアプローチ、という形で合流するようなものであろうかと思います。 また、「よい人権」と「悪い人権」の区別ができるように、「人の道に即した人権」と「人の道に反する人権」とでも名づけて、関心の高い人に誰が、何が敵味方なのか識別できるようにする必要もあるかもしれません。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 神戸の森です。 ご無沙汰しております。 人権擁護法案について、先日ある情報を得ましたのでお送りします。転送歓迎します。 法律不遡及の原則−つまり"法律の効力は、その施行前の事項に適用されない"というのがあるというのが常識であると思っていた。 特に「東京裁判」を勉強するときは不可欠なキーワードです。 ところが、現在自民党の部会などで審議されている「人権擁護法案」という名の「思想警察法案」は、遡及するというのです。 先日2/16に「人権擁護法案反対」のオフ会に参加した際、参加者の方に聞いた話では、彼が法務省に電話して確認したところ「人権擁護法は、人権擁護の実効性をあげるため過去に遡って適用されます」との見解を示したそうです。今後、法律成立前に法務省がこの本音を言うかどうかは解りませんが、これは大変なことです。 もし、法施行後、「シナ」というのが人権委員会によって「差別発言」と認定されれば、いくらでも過去に遡って罰せられるとなると、戦前に生まれた人のほぼ全員が「有罪」。そんなことが許されていいか?こんなとんでも法律を絶対に作らせてはなりません! ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 森さま すでに似非人権擁護法はこの一部が、DV防止(家族破壊)法として施行・実施されています。次々と無罪・微罪の夫や妻(子)が追い詰められ、家族が破壊されています。新社会・共産主義、人権主義、女権主義、利権派などの悪行は止まることを知りません。この件にも目を向けてください。つくばみらい市へも要請してください。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- こんにちは 街中を車で走っていると、道路拡張予定地の金網を目にすることがあります。最近は、一時期ほどではなくなりましたが、数軒の立ち 退きがままならず、道路がいつまでもできないというのをよく目にします。 また、道路特定財源の話が、国会をにぎわせていますが、そもそもどうして、こんなに道路がつくりにくいのか、どうして公共事業が割高なのか、あるいは、あるべきところにあるべき施設がなく、不便なところにばかり、豪華な施設ができるのか、その根幹に触れる議論が交わされている形跡はありません。 さて、なぜ不便なところに豪華な施設ができるのかは簡単で、用地買収は困難なので、本来たてるべきところ(都市計画上合理的な場所) の用地買収はあきらめて、用地買収できたところに施設を建てるからです。 また、道路事業費が高くなるのも用地買収に手間と時間がかかり、そのコストや金利負担が跳ね返るからです。第一、用地買収費自体 が極めて高価であることはいうまでもありません。 となると、根本の問題は、用地買収はなぜ高額のお金がかかり、なぜ手間がかかり、なぜ長期化するのか、という問題であることになります。 さて、そこで憲法です。 まず、明治憲法の関連条文を見てみます。 第27条 日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル 現行憲法では、 第29条 財産権は、これを侵してはならない。 2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。 3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることが できる。 これらは、一見同じ事を表現しているように思われます。私も、憲法草案について考えるまでは、この違いが理解できませんでした。そして、この条文こそが、土地にまつわるごね得と高コストと不合理を生んでいることに気づきませんでした。 その鍵になるキーワードは、現行第29条第3項の2字熟語「正当」です。 日常生活において価格を表す際、「正当」という語を利用することはありません。妥当な価格というを表現するのであれば、「適正」という語で表現します。 「適正」は、その反対が「非適正」であり、経済の用語。「正当」は、その反対が「不当」であり、政治の用語です。 国家とのかかわりにおいて、土地という財産を、政治手段とするのを容認する考えが「正当」という2文字に込められています。 現行憲法は、「国民主権」をうたっていますから、正当性はそもそも、国民側にあることになります。そこに、国家の正当性がぶつかってゆ く。そのぶつかり合いを最終解決する補償こそが「正当な補償」という概念です。「売りたくない」というのも十分「正当な」理由です。 しかし、果たしてそんなものなのでしょうか? まちとして、くにとしての必然性によって自ずと定まった利用であれば、「適正」な補償によって、公につく、というのが本来の国民の姿ではなかったかと思います。 国民のあらゆる欲望にお墨付きを与える「国民主権」という概念の上に、「正当性」という政治の概念を上乗せした「正当な補償」という表現。これが、戦後各地で繰り広げられる公共事業にともなうたかりとごね得を正当化し、公共事業をつりあげ、国土の混乱と荒廃を巻き起こしている元凶のひとつです。 改正ポイント1 財産権に関して、「正当な補償」の語を「適正な補償」の語に修正すること 日常生活で、全ての国民に直接・間接の問題を引き起こしている根本の原因を修正するのが、本来の憲法改正のテーマです。 現在開陳されている多くの憲法改正議論は、「国民主権」という名で「人民主権」を画策している勢力のお先棒をかついでしまっている。土地を「人民主権」にしたら、どんなことがおこったのか、道路拡張予定地の金網は、ものいわずにその結末を物語っています。 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 「現状、出回っている人権の定義」 1.中学校の社会科公民的分野の教科書の「人権の定義」 「私達は、誰でも自由で豊かで幸せな人生を送りたいと願っている。そのような人生を過ごしていく為には、かっての家族制度の中にあったような、男だからあるいは女だからという差別や束縛があってはならない。つまり、人間はあくまで一人の個人として尊重されなくてはならないのである(個人の尊厳)。 人間尊重の社会においては、お互いを人間として尊重すると同時に、お互いの願いを尊重することも大切である。自由でありたい、平等に扱われたい、幸せになりたいといった人間としての自然な願いは、同時に私達が生れながらにして持っている権利と結び付くものであり、このような権利のことを”人権”と呼んでいます」 2.人権擁護法案の人権の定義 「第二条 この法律において『人権侵害』とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう」 「1」については、人権を無条件で天から与えられたものと考えている。もしそうならば日中韓朝の人権格差は本来存在しないはずである。存在する根本的な原因は何か。人権は絶対的なものではなくて、相対的なものである。日本について言えば、「家という公的な私的単位」(養老猛司)=日本の伝統、「男らしさ女らしさ」=日本の文化を見事に否定している。又個人をバラバラの砂のように「アトム化」している。一生懸命、変形マルクス主義(フェミニズム)を学校で教えているわけだ。 日本の家族制度の破壊と優生保護法という堕胎推進法が少子化の根本原因だと考える。共に占領軍が残した日本の弱体化政策ではないでしょうか。 「2」については、縦軸(過去・現在・未来)と横軸(家族「親権」・地域社会「世間体・社会権」・国家「国権」・他国)、道徳、伝統等を絡ませたらどのような定義が可能だろうか。 (換骨奪胎案)「人権侵害とは、過去・現在・未来の人々、又家族・地域社会・国家・他国の人々の人権を侵害する行為をいう」 ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- 平成20年2月29日自民党人権問題等調査会 西田昌司:法務省は説明をされたが、われわれ一般国民が感じているのとずいぶんかけ離れたものだ。2月17日に京都市長選があった。951票差で辛くも自民党が推薦する候補者が勝ったが、この争点は一体なんだったのか。まさに同和問題だ。同和問題の解消が問題になったのではなく、同和問題は実は逆差別的な、優遇的なことになっているんじゃないかという市民的感情が非常に強く、共産党の候補に951票まで迫られた。20年前にも京都市長選があった。このときは321票差。このときも勝ったが、これもそのときのテーマは同和問題。同和行政をもっとせい、というのではない。解消して、それが今現在も、終わっているのに、まだなおそれが残っているじゃないかというのが市民的感情であるわけなんです。そのことをしっかり認識していただかないと、人権という言葉を振りかざして、逆に、逆差別状態を助長させてしまう。 具体的な人権救済制度の現状と(の資料が)あるが、見てますと、家庭内、施設内、ストーカーとか、要するに個人個人の人の付き合い方の問題だ。その根源となるのは、まさに家庭をはじめとする道徳意識、規範意識の低下が一番大きな問題であって、法律がないからこういう問題が出てきたんじゃない。また法律で救済できるものではない。そもそも道徳によって、道徳教育によって救済しなければならない。今回、教育指導要領も改訂になってきて、道徳教育を充実させるという話が出ている。まさに、われわれはそちらの方に主軸を置いてやっていかなければならない。 この「人権」というも、何なのかということはまったく答えられていない。その中で強制権のあるこういう法律をつくることは、まさに国民の意識と乖離したものであるばかりではなく、逆におかしな国民の対立をつくってくるし、結局はモラルの低下を助長させることになってしまうのではないか。⇒政治家自体の首を絞める法律。 稲田朋美:法務大臣もこの法案は白紙から検討するとおしゃっていた。今日の説明は17年の法案を基礎にしたものだと理解している。やはり私はこの法案が包括的な人権侵害ということを規制する法案が必要かどうかというところから議論をしていただきたい。そして会長が人権侵害された者の視点に立ってと言われたが、不当な申し立てをされた者の視点も考えていただきたい。私は政治家になってから弁護士会に調停の申し立てをされているんです。私の行動が三権分立に違反しているとか、私の論文に掲載した写真が名誉毀損という非常にいいがかり的なものだが、それは私の政治活動を妨害したい勢力から、そういう申し立てをされて、いまだに苦しんでいる。私は弁護士だが、そのような言いがかりであっても、呼びだしをされたりといったことで苦しんでいる。 また、例えば小泉総理の靖国参拝。これは民族的人格権の侵害であると言って、全国で裁判が起こされている。そうすると、私のように、総理は靖国神社に参拝すべきであるという意見を講演で述べますと、差別を助長するものであるといって、積極的な救済の対象になって、弁護士会で苦しんでいるのと同じような状況が起きまして、政治活動、表現の自由に対する重大な危険だ。表現の自由は憲法で、他より優先的な地位が与えられている。民主主義の根幹に関わる問題だ。このような問題が、人権救済の対象になって私が申し立てられたとすれば、この法案自体が憲法違反だということで、裁判所に訴えなければならず、憲法裁判が非常に増えて、司法界も混乱すると思う。どうかこの法案がいるかどうかという点から議論していただきたい。⇒訴訟社会の到来。民主主義の中から民主主義を否定する法律。 矢野隆司:学校を出てから新聞記者をしていた。今は使ってもいい言葉だが、当時、私のときに「皮切り」という言葉を使うとだめだと言われた。ものごとの手始めにという意味で、この皮切りにという言葉があるのだが、要するにこれが、動物の毛皮を剥ぐ行為に由来しているということから、皮切りという言葉を使うなと言われた。当時、私は記事に書いたときに、新聞労連の支部とやり合ったことがある。その後、関西有数の高級住宅地と言われる芦屋という町があるが、芦屋市の市役所のキャップをしたときに、細かいことはいいませんが、ある地区の小学校は、あの狭山裁判の石川一雄被告が逮捕された日、全校でゼッケン登校と言って、全員に「石川さんは無罪だ」と、狭山はえん罪だというゼッケンを小学生に着せて、登校をさせておったことがある。そのことについても、私はある父兄の方から相談を受けて、そのこと自体とは関係なく、うちの子供にそういうことを付けて登校させたくないという相談を受けたことがある。何を伺いたいかというと、逆差別を受けている、あるいはそういう被害を感じている人も、例えばこういう法律が仮にあったとして、それを例えば同和団体とか、そういう地区に対して訴えることができるのかどうか。⇒自由社会自滅の法律。 法務省:逆差別の問題も、人権侵害の問題としては私どもも重要に考えている。いわゆるエセ同和問題がある。これについては法務省が中心となって行政府等の間で一体となって対策を講じるということで、警察等とも連携し、対応してきた。 同和問題に対しては、具体的に差別があれば、人権問題として、私どもはきちっと対応する。差別だという言いがかりが同和団体から来たとする。それについては、こちらとしては、そういう存在しない事実で言いがかりを言うのは、誹謗中傷に当たるわけなので、これが例えば同和団体であっても、それに対しては違法だと言わなければならない、それ自体が人権侵害だと言わなければならない。私どもは平成の初めごろから、同和団体の確認・糾弾集会は不適当なものである、それは民間同士で、要するに私人同士であっても、不適道なものであるから、出席する必要もないし、そういうことを称揚すべきではないと、一貫して述べている。 今度の新しい人権委員会というのは、人権侵害があるのか、ないのか、ない場合も明確に言うということが重要でありますし、お前の言うのは誹謗中傷だという申し立てがあれば、もちろんその点についても判断する。したがって、準司法機関的な機関として、明確に人権侵害があるか、ないものもないと言っていくというのが重要なところだと考えている。⇒現状の役所の人権課が機能している。 西川京子:要は本当に小さな、些細なことでも訴えられて、そうされるとかなりの時間的、精神的苦痛を受けて、何度もそういうところに足を運ばなければいけない事態になる。人権侵害だ、と言われることはいわばセクハラ問題と同じで、やった側とやられた側というのは本当に微妙な話になる。これを誰が一体判断するのか。だからこそこれは、こういう心の分野まで法律が強制権を持って入る危機感がある。今の話を聞いていると、まさにその中に堂々と入ってきて、簡単にこの問題があちこちででてくる。 個人情報保護法を考えたらいい。あの法律ができたおかげで、PTAの連絡網もできない。あらゆるところで、個人情報だという言葉だけが走って人間関係、地域社会を壊している。今の説明がこの問題の、この法律の本質を突いていると思う。誰が一体人権侵害と判断するのか。神のみぞ知る、じゃないですか。そこはだからこそ、お互いの人間的付き合いの中で解決していくんでしょという道徳の世界の話じゃないですか。 ⇒道徳、伝統、文化の空白を埋める形で出てきている。 平沢勝栄:数年前に私が法務部会長をしていたときに議論したが、あのときやっていたような同じ議論がまたされている。あのときは、とてもじゃないけど、これは一本にまとまらないというか、反対が強くて、とてもじゃないけども出すことはできないという話で一旦お蔵入りした話だ。ところがなぜこの時点で、確かに一部修正してきていますけども、これがもう一回でていたのか。その間に、現場でこれを必要とするような情勢が出てきたのか。それがよく分からない。数年前に一旦結論を出たものが、なぜまたここで、ここでみんな忙しい、ギョーザ問題とかいっぱいあるときに、こういう問題を一生懸命やっているのかがよく分からないので、なぜこういうことをやろうとしているのか。⇒自由な言論活動を封殺したい力が働いている。 杉浦正健:この問題はお蔵入りになって廃案になったが、それを起こしたのは小泉総理。郵政選挙の前の施政方針演説で人権擁護法案の提出を検討するということに触れられましてね。私は官房副長官でした。それを受けてすぐ郵政解散で、私は法務大臣を拝命して、白紙から検討しろということで、始まったわけです。だからこの人権法案は脇に置いておくと。私は部落の問題はまったく分かりません。うちの地元にはまったく部落は存在しないし、解放同盟はありませんから。 だけども、私の問題意識では、例えばマスメディアのメディアスクラムというがある。そういう問題について、何らかの対応が、もちろん同和問題もあるかもしれないけど、やっぱり必要なんじゃないかということで動き始めた。で、いいところまで行った。鳩山大臣が検討してほしいというので、このチームが立ち上がったわけだが、私は白紙、まったく白地に、どういう法律をつくるべきなのか、同和の問題とかもあるので、そういう問題を皆さんが納得出来る形で作った方がいいと思う。⇒馬鹿である。 衛藤晟一:小泉総理はそう言われたかもしれないが、安倍総理ははっきりとやらないと言った。ですから、その話はチャラです。今の局長の話は、一般的な救済についていうのなら分かる。ところが、そこだけで、誤魔化してはいけない。 3条委員会というものは極めて特別なときに限られている。必ず公取でも何でもものすごく限定的。公権力の行使について極めて慎重なんです。ところがこの法案は「おそれ」まで全部ひっくるめて、そして調査権がある。調査権はひどくないというが、調査に応じなかったら罰金30万円。それを被ったら、大変なことで、ちゃんとした手続きが終わらないうちにレッテルを貼られちゃうわけですから、大変なことになる。例えば逆差別で反論できる余地はあるというが、先に訴えた方が勝ちだ。こぞってそこに行って30万円とったら、勝負あっただ。だから、令状の執行がいると、今の法律は人権を守っている。それをごちゃごちゃにやるととんでもないことになる。そうでなければ表現の自由は守れない。 萩生田光一:頭からこの法律は要らないとは言ってない。現行制度で救済できない深刻な人権侵害はどんなものがあって、その人たちを救済するために法律が必要か否かを、議論しなければならないのだから、どういうことが大切なのかと聞いたら、今日、資料が出てきた。それぞれ確かに人権侵害がある事例なんだろうだが、現行制度でなぜ救済できないのか、という点が突然飛んでしまってよく分からない。例えば福祉施設の入居者に対して、虐待が起こるとすれば、これは措置をした地方自治体が責任を持って調査するだろうし、刑事罰に値するなら告発もされるだろう。また、障害を理由に入学を拒否する学校があるとすれば、これは教育委員会や文部科学省が指導せざるを得ない内容で、泣き寝入りしている実態があるのか、教えてもらいたい。 早川忠孝:人権侵害ということで看過できないのは、昨年の富山県のえん罪事件。刑務所から出てきてから無罪であることが判明した。これに対して人権擁護局はどういうことをしたのか。どういう機能がないために対処できないのか。鹿児島県の志布志事件についてもその通りで、それをえん罪だと言わないと法務大臣が言ったために、それが当事者にとっては大変な人権侵害だという認識が広がっていたことを考えれば、これに対して人権擁護局はどういう対処をしたのか。もともと白紙だと言いながら、すでに廃案した人権擁護法案を前提に議論するから分からない。 石井準一:千葉県では、障害もあるものもないものもともに暮らしやすい千葉県条例を立ち上げるときに、喧々囂々の議論があった。そのとき一番問題になったのが、学校による障害者等に対する入学拒否、これが具体例であがっているが、教育現場では大変な問題になった。受け入れるにはまず予算措置が必要で、事故が起こった場合、どのような責任の取り方があるのか。障害者を受け入れた教室と受け入れてない教室で学力差が出た場合、誰が穴埋めをするのか。ペナルティでそういう事業主とか事業所を公表すると言われたときに、先ほどの衛藤先生の話じゃないが、企業が組織が成り立たなくなる、そうした問題が出てくる。入学を拒否された方の声を上げただけでなく、現場の声をしっかり確認をとってもらいたい。その中で法律、条例は基本的に積み上げていくものであると思うので、現場の声をしっかりと受け止めるデータを示してもらいたい。⇒なんでもかんでも平等に扱えという考えがある。 下村博文:われわれは立法機関なので行政機関から言われたこととは別のスタンスで考える必要がある。国民にとってどういう法律をつくることが大切なのか。つくった後の法律が国民にとってどうプラスなのかを考えないといけない。そういう中で訴訟社会を助長させるような法律をどんどんつくることが立法府として、本当に我が国にとっていいのかどうかを、保守政党たる自由民主党が、そういうスタンスで考える必要がある。法務省側からはつくってほしいということであっても、自民党側は果たしてその法律をつくることが将来的にこの国にとって相応しいのかどうか、本質的な部分、行政とは別の立法的なスタンスをよく考えながら法律をつくるということは非常に重要なことだと思う。先ほど、個人情報保護法の問題が出たが、よかれと思ってつくってもマイナス点がある。同じように、人権ということについて言われればみんな反対しないけども、本当に新たに人権擁護法をつくることについてはみんな疑問を持っているわけじゃないですか、今までの質問すべてが。 はじめから人権擁護法案ありきという議論ではなく、そもそも論から議論していただきたい。国民にとって悪法のような形で運用される恐れがあるから非常にみんな危機感を持っている。ぜひ、そうならない形でどう対処できるか十分検討して、少なくとも立法ありきという議論ではないという、そういうスタンスを持ってもらいたい。⇒行政が泣きついているのだ。で要所に大田誠一氏(委員長)と杉浦正健氏(局長)を置いている。 太田誠一:下村先生がおっしゃる通り、訴訟社会に無理にもっていってはいけないと思う。ただ、実際に起こってきたことというのは、過去は明らかにあったし、今も減っているけどもあると言ってもいいと思う。それについてナーバスになっているということもありますけども、そのことを人権擁護の施策推進法のときに国会で確認をしているわけでありますから、そこがスタートラインになる。その中でどうやって今ご懸念のことを除いていくために今やっている。 法務省:差別的取扱という問題がある。先ほど学校による入学拒否という話がありましたが、具体的事案においては学校側の事情を考慮しないということはありません。ただ、拒否されたからそれで違法になるということはございませんので、学校側の意見も十分に聞き、そして障害者の方の意見、話も経過も聞いた上で、十分に考慮したうえで、どういう解決があるのかというのを、現在の私どもの機関でいえばソフトな手法でそれを考えていく。しかし、最終的にあっせんなどがうまくいかなかったときには、結論は出さざるを得ないだろうと、そういった形でやっておるところです。 差別的取扱につきましては、個別法に基づく行政的救済は基本的にはありません。裁判で決着をつけるか、人権擁護機関がやるか、ということになる。差別的取扱というのは基本的に刑事罰にはなりません。例えば、入学拒否された場合、入学拒否された人が裁判で訴えることになる。しかし、入学は4月に入学ができないという状態で、結局、他の学校に行くかどうかを考えなきゃならないということになりますから、裁判では仮処分をかける、かけないというレベルになるわけですが、人権擁護機関では迅速にその点について一応対応することができる。しかし、現行の法務省の人権擁護機関はまったくの任意調査、そして任意の形でやっている。 また、高齢者虐待の問題については、現実に昨年千葉で起こった事例などを見ても、結局さっさとその施設をたたんで、就業者をどこかにつれていって分からなくなったという事例がある。千葉県などは、それをどういうふうに法律を適用して対応するか苦慮している。私どもの方では、具体的な加害をした個人、職員、あるいはそれを監督する理事長と折衝して、被害救済を図る方向で、いろいろ指導したということですが、そこについても、一定の判断自体についても、公正さが担保された機関が必要であろうということです。そういった機関は現在の個別法ではございませんし、これらの被害者は裁判所にそれを民事的に訴えるのは困難であろう。⇒行政・法務省に問題がある。社会から良識・常識がなくなって来ている。 下村:今は、人権擁護局長の答弁だったらまだいいが、これが国会で総理の答弁だったらこれは認められないと思う。最初の学校による障害者等に対する入学拒否について、だからこそ、こういう人権擁護法案をつくる必要があると言ってましたが、果たしてそういう切り口で、こういう問題を処理していいのかとどうかという問題はそもそも論としてある。確かに一般論から言えば、学校側が入学を拒否するのはけしからん話だが、しかし、もっと事情を聞くなかで、果たして障害者の人たちを受け入れるような施設整備なり、あるいは人的な配置なり、教育的な環境なり、ほかの部分におけるいろんな事情があるかもしれない。それについては本来は人権擁護法案で解決するのではなくて、教育委員会なり、そっ ちの方で解決しなくちゃいけないことかもしれない。 ですから、人権擁護局長の答弁だったら分かるけど、政治家の答弁だったら、こんなこと言ったら、「馬鹿野郎」っていう世界ですよ。果たしてすべてをこういう人権擁護という法律で全部押さえてしまっていいのかという問題について、これは立法では政治家が判断しないといけないことだ。 土屋正忠:私は現場にいた立場から申しあげるが、例えば今の局長がお話しになった事例の中で、学校。そもそもこの種の問題は古くて新しい問題。少なくとも今の教育基本法などの考え方は等しく能力に応じて教育を受けるということになっている。そうすると、例えば聴覚障害者と視覚障害者と知的障害者と、障害が違う人が一律的にいわゆる普通学級に入っていいかという教育上の大議論がある。 昭和20年代からいわゆる障害者教育はやってきた、それは肢体不自由の対象者。後から、知的障害者だって混合教育がいいかという大議論がある。だから、こういう例を挙げるのは、ここだからいいようなものの、一般社会に出たら、めちゃくちゃにやれてしまう。こんな程度かよと。これは下村先生もおっしゃったけれども、この種の問題は、義務教育っていうのは等しくやらなきゃいけないんですけど、今はある程度障害別教育になっている。それに対して、普通学級に入れろっていう運動がある。その運動は親の気持ちとしては分かるけども、果たしてそれが本当に可能なのか。その人の能力を伸ばす道なのかという大議論がある。そういう大議論を踏まえずに、こんな例を挙げて人権侵害だなんて言った って、本当に下村先生がおっしゃったようにえらいことになる。 それから高齢者の話もいろんな議論がある。今、たたんでどっかに行ってしまう、千葉の例を挙げたが、たたんでどこかに行ってしまうような人をどうやって人権委員会はするんだろう。社会福祉事業でもやるんですか。たたんでどこかに行っちゃう人の代わりに?全然こういう例を挙げたら、社会福祉とか社会保障やっている人から総スカン食らいますよ。社会福祉やっている人やそれを監督する厚生労働省は、例えば介護保険の機関だって、コムスンどうするんだっていう精密な議論をしてるんですから。現に介護保険法の改正一部出しているんですから。だめですよ、こんな荒っぽい議論しちゃあ。 仮に第3条機関ということになると、人権擁護を徹底させるための執行をしていくわけでしょ。決めて執行する機関ですよね。すると膨大な支局や部局が必要になりますよ。例えば武蔵野市をとっても、そこに一支局を置いて常時目を光らせていくことが非常に大事になる。そんなことまで考えているのか。もし教育の事例や高齢者の事例を挙げるんなら、現場の教育委員会や現場の施設長を呼んで議論した方がいい。 戸井田徹:去年、地元のある企業の経営者が相談にきた。セクハラで訴えられたっていうんですよ。50年間お菓子でやってきて、従業員は半数以上知的障害者で、誰も地域の人たちでその人がそういうおかしなことをする人だと言う人はないし、本当に真面目で手本みたいな人だった。ところがその人の会社に新しく女性の従業員が入ってきた、経理をやっていた。それでごちゃごちゃごちゃごちゃ会社のルールを守らないでやってきた。会社の中で問題があるから辞めさせて欲しいだ何だって、そういう話になって、最後にその社長が本人と部屋で一対一で話をして、「分かってくれたんだな」ということで最後に握手をして、うまくやってくれ、みんなと仲良くなってくれと言って握手して出たとたんに、その後その足でもって訴えられた。話を聞いたら、やっぱり示談で済ませたということなんですね。 本当に、まじめな人ほどこういう法律ができたらやられるんですよ。セクハラでもって、一つの法律をつくるということはそれでもってセクハラがなくなるということじゃなく、それを利用する人間が出てくること。利用する人間の手にかかったら真面目な人間ほどやられるんですよ。それと同じです。この人権擁護法というのは。人権侵害とは何なのか。人権を侵害されたという人間の気持ちだ。握手をしてセクハラをされたということ。そんなことが世の中で蔓延するのは、まともな国ではあり得ない。この法律が通っていくことで、どんどん社会がおかしくなって、日本が完璧に解体される、一歩。一歩じゃない、二、三歩になっていると思う。これはやめてもらいたい。⇒国家解体法案。 古屋圭司:人権侵害に対する擁護は絶対なされないといけないというのはみんな論を待たない。現実にこの法案が、そうではない、新たに危険な方向に行ってしまう可能性が高い。前も指摘したように、人権擁護推進審議会の答申から乖離しているんですよ。答申は非常に抑制的に書いている。基本的に簡易な方法にしなさい、現行法をいろいろ活用しなさい。どうしてもダメな場合は積極的救済。でも、それでも定義を明確化するとか、強制権は付けないとか、そういうふうにしなさいというのが答申の全体の流れ。にもかかわらず、この法案が出てきてしまっていることはそもそもおかしい。どんな人権侵害が行われて、救済されないのは何なのか。現行制度ではだめなのか。そういうことをしっかり議論してい きましょうよ。やっぱり、この法案は廃案になったんだし、この法案を議論することはここでストップするべきだと思う。 太田:ありがとうございました。さまざまなご指摘は共感できる部分も多々あります。いずれにせよ、最初の法案でお諮りをするという気はありません、それでやろうという気はありません。ぜひ、こういうものならば必要だというふうな、人権救済の法律をここでつくり、そして法務省の方もそれを受けてやっていただくということでお願いしたいと思う。また有識者の話を改めてお聞きをしたいので、ご協力をお願いいたします。(了) ------------------------------------------------------- ◇ --------------------------------------------------------- <社会的背景> 1.道徳、伝統、文化の空白。 2.一方的な人権教育による権利意識の肥大が空白に浸透。 3.社会から良識・常識がなくなった。 <制定の動きの背景> 1.行政が法務省に泣きつく。 2.頼まれた法務省が要所に官僚の言うことを聞く、大田誠一氏(委員長)と杉浦正健氏(局長)を置く。 3.利権と感じた部落解放同盟が強力にバックアップ。 <法律の特徴> 1.政治家自体の首を絞める法律(言論活動の自由がなくなる)。 2.民主主義を完全否定する法律。 3.国家解体法案。 <もし法律ができたら> 1.自由社会の消滅。 2.相互監視社会の到来。 3.訴訟社会の実現。 |