| 憲法(X) |
| 田中英道 | 伊藤 貫 | 北 康利 | 阿川尚之 | 兵頭二十八 | 慶野義雄 | 荒木和博 | 志方尚之 | 田村重信 | 佐々淳行 | 櫻井よしこ | 日下公人 | 桶谷秀昭 | 東谷 暁 | 和田秀樹 | 真中行造 |
| 佐藤健志 | 林 秀彦 | 早川勇郎 |
| 田中英道 東北大学名誉教授 正論11月号 平成18年度 「日本国憲法」は共産革命の第一段階としてつくられた 1《OSS(アメリカ戦略情報局)の日本支配》 ・大東亜戦争開始から終戦までのルーズベルト大統領によって作られた「日本計画」が最近のアメリカ国立公文書館の新資料で明らかにされた。戦後の日本の憲法もGHQが作成したというより、それ以前のOSSからの方針の結果である、と見た方がいいということが明らかになった。私達日本人は、大東亜戦争のアメリカ側の責任者がマッカーサーであると考え、その言動に注目しているが、実を言えば、彼を指名したのはルーズベルトであり、彼が組織したOSSの方が、主要な力を持っていたためである。ただ、この組織は戦後後任のトルーマン大統領によって解散されたから、日本人には余り知られていないが、マッカーサーは、ほとんどこの組織の路線を踏んだと思われる。 ・ルーズベルト大統領によって創られたOSSは、反日政策を実施するばかりでなく、社会主義に対する支持をし、こともあろうに共産中国を成立させる役割を演じた。トルーマンがこのOSSの「連中が戦争でも何でも勝手にやってしまう」と言って怒ったことも知られている。 ・このOSSによって中国共産党が援助されており、アメリカが戦後悩むことになるベトナム戦争もこのOSSによって種が蒔かれたといってよい。この共産ベトナムの革命の父、ホー・チ・ミンは隠れOSS要員であった。彼はOSSが系列企業の経済特権(鉄道と道路)を確保するために起用された人物であったのである。ミンはOSS解体後、ベトミンの訓練と武器の支援を、OSSから引き継いだCIAから受け、アメリカ政府との経済特権の約束が履行されていた。その結果、彼はフランス軍と戦い、後に当のアメリカ軍とも戦うことになったのである。 ・終戦後マッカーサーの対日政策にも日本国憲法作成にも、多くの影響を与えたハーバード・ノーマンも、ジョン・エマーソンも、この組織にいたことを思えば、この重要性が分かるであろう。ノーマンは後に、マッカーシーによってアメリカ共産党員であったことが暴露され、自殺に追い込まれているのである。 ・アメリカはOSS以前は、情報機関をもったことがなかった。しかしルーズベルトはその必要性を痛感し、第二次世界大戦の開戦前の1941年7月11日、ウイリアム・ドノヴァン大佐(のち少将)にまず、中央情報機構COIの立案を命じ、更に発展させて別の組織、すなわち中央情報局と秘密活動(諜報活動)を兼ねた機関をつくることを命じ、OSS(Office of Strategic Service)を1942年6月の組織させた。 ・OSS工作員の太平洋戦域での活動は、親・ソ連、親・中国共産党のためであった。ドノヴァンは有能な人物を集め、1941年12月に600人、1200万ドルから、OSSの改組後の1942年6月には予算1億1154万ドル、スタッフ1万2718人を数えるに至り、終戦までには工作員と補助工作員合わせ、3万人を超えるといわれる大組織になっていた。 《OSSに対してルーズベルトが与えた任務》 1.学問的及び非公式の情報活動の継続 2.謀略的な宣伝 3.破壊活動(ただし正規軍と協力すること) 2《「二段階革命」の提起》 ・OSSこそが、蒋介石の国民政府を敗北させ、中国共産党の統一国家をつくらせる計画を進めたのであった。 ・野坂参三は「社会主義は軍国主義の破壊を通してブルジョア民主革命を達した後に得られる」という二段階論を展開したのである。 ・ルカーチの理論は、先鋭的な階級意識をつくって社会を主体的に変えなければならない、という理論である。マルクスの「資本主義社会は経済的矛盾によって必然的に革命が起きる」というのがウソだからである。 《マッカーサーの「憲法」作成の指令》 ・GHQが強い関心を示したのが、20年12月下旬にGHQに届けられた憲法研究会の「憲法草案要綱」である。この会は東大教授で後に社会党顧問となった高野岩三郎、京大在学中に治安維持法で検挙された在野の学者であった鈴木安蔵、東大助教授を解任され戦後社会党結成に参加した森戸辰男、そしてやはり在野の評論家の室伏高信らによって構成されている。これはOSSとの関係が、ノーマンと鈴木を通じてあったからである。 ・GHQの民生局のラウエル中佐は注目すべき人物であった。憲法研究会の鈴木安蔵を知っていたし、日本のことも研究していた。スォンフォード大学やハーバード大学卒業後、カリフォルニアで弁護士をやっていたが、シカゴ大学で日本の政治制度の研究をしていた。この人物こそ、鈴木安蔵の憲法研究会案を英訳させて回読させ、GHQの憲法改正草案に取り入れたのであった(小西豊治『憲法「押し付け」論の幻想』講談社現代新書、2006年)。鈴木安蔵が共産主義者であり、ノーマンも共産党員であった。ラウエル中佐もその意向を取り入れたから、当然その憲法草案に影響を与えずにおかないだろう。 4《「日本国憲法」と共産党の「人民に訴う」》 <平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しょうと務めている国際社会>が、日本のそのような状態を脱却させる第一段階の革命を目指し、明らかに<平和を愛する諸国民の公正と信義>をもつ国が、当時のソ連をはじめとする社会主義国家のことを指している、と取れるからである。<恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する>ことは、内に崇高な「共産主義社会」を理想とする憲法と考えることが出来よう。 ・第9条の「戦争の放棄」も革命的な視野からいえば、国内問題に適用されるのである。まずブルジョア国家の屋台骨、軍隊を取り去り治安を警察だけにし、革命を行い易くするために準備する条文ととることができる。戦後一時期、労働運動は激化し、「革命前夜」とさえ言われた。国家がそれを弾圧しないようにするための条文でもあるのだ。これは1945年、終戦の年にマッカーサーが出した労働三法の労働組合法が、組合運動を助成し、団体交渉などにおける組合員の行為に就いては暴力にあっても、刑事責任も民事責任も問われない、などという法律と繋がり、労働者が暴力革命を起こしても、それを武力で抑え付ける力を国家に持たせない意図と対応する。 ・日本人は早くこの憲法が、共産党、社会民主党によって支持されてきた理由を理解し、共産革命への第一段階をめざすものであったことを認識する必要があるのである。歴史・文化を忘れ、権利だけを主張する憲法は、社会を荒廃させるだけであるのだ。ただ日本がこの憲法をもちながら、必ずしもそうならなかったのはひとえに国民の保守精神が強固であるからである。 |
| 伊藤 貫 国際政治アナリスト 正論12月号 平成18年度 「これが日米両国憲法の欠陥だ」 ロバート・ボーク:元訟務長官・連邦高裁判事 ボーク:「ジェファーソンとマディソンが独立宣言と米国憲法を起草したとき、彼らは、当時のアメリカ人が共有していたキリスト教倫理・伝統・道徳規範を守り続けることを当然の前提として、『自由』や『権利』の重要さを強調した。ところが20世紀のアメリカ社会では、これらの共通した倫理・伝統・道徳規範が衰退してしまった。共通した倫理と伝統を失い、『自由』と『権利』ばかりを主張する個人が自己満足だけを追求しょうとする社会は、おそるべき社会だ。こんなことになるとは、米国憲法の起草者達は予想もしていなかった」。 ボーク:「18世紀の啓蒙思想家ージョン・ロック、モンテスキュー、アダム・スミス、ジェファーソン等ーは、人間の本質的な性格に関して、深刻な判断ミスを犯していたのだと思う。彼らは『人間は理性的存在だ』と信じていたのだ。人間の『理性』とかいうものを、あきらかに過大評価していたのだ。それとは対照的にバークは、『秩序と道徳の存在しないところには、自由も存在しない』と述べていた。彼は『自由』というものを『秩序と道徳』によってバランスさせる必要性を、明確に理解していたのだ」。 1960年代から、「自由社会においてこそ、国民が共有できる道徳・伝統・秩序が不可欠の要素である」と大胆に主張し続けてきたロバート・ボークが、伝統的な秩序と価値規範を破壊することを政治目的としてきた民主党系の戦闘的フェミニストやポスト・モダン派の「インテリ」から蛇蠍の如く嫌われてきたのは、当然のことであった。 《リベラリズムの変質》 ボーク:ミルの政治思想には、二つの流れがあります。ひとつは規律と禁欲を重んじた、古典的なリベラリズムです。もうひとつは彼の「自由論」にみられるように、自由放任の態度を過度に強調して、後世に悪い影響を残したリベラリズムです。・・・・・私自身は、「個人の自由」という観念は、常に「個人の責任」という観念によってバランスされる必要があると思います。⇒「両価性」の必要性。 ボーク:「一人一人が、何でも好き勝手なことをやってもいい」というタイプの個人主義ではなかったのです。しかし最近のアメリカの個人主義とは、「個人がどんな無責任・無節操なことをやっても、他人は干渉するな」という個人主義です。しかも過去50年間、連邦最高裁はそういうタイプの個人主義を容認する判決を出してきた。法律というものは「没道徳的」であってよい、という態度です。 ボーク:経済的な財やサービスでは、質の悪い商品を売れば消費者はそれを買わないから、自然淘汰されていきます。しかし文化や思想のマーケットでは、低質のものがよく売れて高質のものが廃れていく、という傾向があるのではないでしょうか。・・・・・私は、「言論の自由」や「表現の自由」という憲法上の根拠を使って猥褻物の商品化が許容されている現状に、賛成できません。米国憲法によって保障された自由を暴力行為(クーデター、テロ等)によって破壊することを主張する右翼と左翼の暴力思想の宣伝に対しても、制限があってよいと思います。 ボーク:猥褻物を商品化する行為は、人々の価値観と知性を低劣化させています。猥褻な「文化商品」が氾濫することは、社会的にマイナスになっています。ポルノは今や、アメリカの巨大産業です。これがアメリカ国民の知性と思考力を低下させていることは、明らかです。バイオレンスの表現や宣伝に対しても、制限が必要だと思います。 《多文化主義の社会破壊》 伊藤:ボークさんは、「共通の文化的伝統や価値規範を守らない社会は、自滅してしまう」というお考えですね。 ボーク:最近のアメリカは、この共通した文化的伝統や価値基準を失ってしまった。いわゆる多文化主義とかいうものは、いずれアメリカ社会を破壊してしまう可能性があります。 伊藤:20数年前、私がコロンビア大学で「独立前のアメリカ知性史」という講義を受講していた時、後にニューヨーク州副知事となったベッツイ・マッコイ助教授が、共和党支持者であることを隠そうともしないので驚いたことがあります。講義の後で、「アイビーリーグの大学で、共和党支持者であることがばれてしまう内容の授業をやって、大丈夫なのですか」と訊いたら、彼女は少し興奮した口調で、「コロンビア大学の同僚から、自分がどれほど意地悪されているか」そして「アイビーリーグの95%、たぶん97%の教師は、民主党員だ」と教えてくれました。米国諸大学の教職ポストの民主党左派による独占は、ちょっとひどすぎると思いませんか。 ボーク:その通り。アメリカの大学で生徒達が教えられているのは、まともな知識ではなく、左翼のイデオロギーに過ぎない。ひどいものです。学生達はきちんとした質の高い知識を教えてもらえず、無知な状態のまま学校を卒業してしまう。やはり60年代の学生騒動の悪影響でしょう。あの時期に騒いだ連中が大学の教師になってから、アメリカの大学教育は独善的で教条主義的な、つまらないものになってしまいました。 《功利主義と宗教》 ボーク:マテリアリズムは駄目ですね。すべてのことをカネや損得から計算するようになると、家庭制度はもたない。福祉国家では、歳をとったら国家のお世話になればいいわけですから、子供なんかいらない、ということになります。しかもそもそも、子供というのは邪魔物です。私にも子供が三人いますが、あの連中は本当に邪魔物だった。だから損得の計算からすると、「子供なんかいないほうが便利だ」ということになりかねない。 ボーク:フェミニストのように「個人の満足」だけを判断基準としてものを考えるなら、家庭制度や社会制度は維持できないでしょう。 伊藤:道徳規範というのは、「功利」や「満足」とは別のものを源泉としているからです。・・・・道徳規範の源泉とは何ですか?社会の伝統的な価値判断ですか、宗教ですか、それとも哲学ですか。 ボーク:宗教が一番大切だと思います。伝統的な価値観というのも、悪くないのです。しかし社会が巨大になればなるほど、それぞれの共同体に受け継がれてきた伝統的な価値観に頼って道徳規範を維持しょうとするのは、困難になってくるのです。また、最近の哲学者たちは「何を重要な前提として、何が大切な価値観か」ということについて、まったく意見が一致しない状態です。だから現代社会では、伝統的な価値観や哲学に依存することによって道徳規範を維持しょうとするのは、難しいのです。しかも悪いことに、どこの国でも宗教の影響力はどんどん衰退しています。⇒国体た役立っている。 ボーク:ほとんどのアメリカ人にとって、宗教とは「自分を慰める」ために利用するものであって、「自分自身に厳しい道徳的な義務を課す」ためのものではないのです。世論調査によると「93%のアメリカ人が、自分は死後、天国に行く」と信じているらしい。 伊藤:初期のアメリカ人の宗教というのはカルヴィン主義のプロテスタント諸派で、とても戒律が厳しく、禁欲的なものでしたからね。 ボーク:近代人が「超越的な何ものか」の存在を認識できなくなったのは、おそろしいことです。 《自由主義という空虚》 ボーク:自由放任主義は保守主義ではありません。アメリカでは、このことを誤解している人がとても多い。私が猥褻物やバイオレンスの商品化に賛成しないのも、私が自由放任主義者ではないからです。猥褻物とバイオレンスの商品化は、明らかに子供たちに悪い影響を与えています。我々は、子供達を守る必要があります。私の友人のアービング・クリストルが、「自由放任主義は、単純で子供っぽい連中が唱道するイデオロギーだ」と述べていましたが、私も同感です。 ボーク:人間にはファイティング・スピリットが必要ですが、道徳規範を失った人々には「大切なもののために闘う」という姿勢がなくなってしまうのです。 ボーク:フェミニストや左翼活動家の情熱は、強烈なものです。彼らは自分達のイデオロギーを徹底的に社会に押し付けようとする、全体主義的メンタリティの持ち主です。保守的な人達はそれに押されっぱなしになり、ファイト・バックしょうとしない。保守派には「確信が欠けている」からです。 伊藤:保守派が「知的道徳的な確信」を回復しないかぎり、左翼に押しまくられるばかりですね。 ボーク:そうです。我々が「確信に満ちた道徳規範」というものを取り戻さないと、左翼グループによる社会破壊はますます進むでしょう。 伊藤:ボークさんは、左翼やフェミニスト・グループが歴史を歪曲したり、「歴史的事実」や「歴史的真実」を捏造したりしてきたことにも、批判的ですね。 ボーク:彼らは、「人々の歴史観をコントロールすれば、現在の政治をコントロールできる」という政治戦略を、意図的に実行しているのです。 《終りにー功利主義克服のために》 伊藤:過剰なマテリアリズムと皮相な功利主義、まともな価値判断に基づかない近視眼的な個人主義、空虚な快楽主義、左翼やフェミニスト・グループによる執拗な家庭破壊・教育破壊活動等々、日米両国に共通した問題は多い。 ボーク教授は保守派のカトリック教徒であるから、アメリカ社会は禁欲的なキリスト教倫理を復活させれば道徳的再生が可能だ、と考えておられるようだ。しかし特定の宗教というものを持たない(もしくは、そもそも宗教心が薄い)我々日本人には、特定の宗教的倫理を復活させることによる道徳規範の再生は、難しいだろう。 伊藤:日本人に出来ることは「古典学の復活」であると思う。毎朝20分ほど家庭と学校において、人類の古典的名著とされている書物を朗読するのである。何を「古典」と考えるかは、哲学者・宗教家・歴史家に議論してもらえばよい。とにかく古典的なテキストを毎朝少しずつ朗読することによって、皮相な功利主義や快楽主義に対抗する知的免疫力を獲得するのである。ボーク教授は、「人間にはファイティング・スピリットが必要です。道徳規範を失った人々には『大切なもののために闘う』という姿勢がなくなってしまう」と語った。我々日本人は「古典を学ぶ」という古き良き習慣を復活させることにより、道徳規範とファイティング・スピリットを再生することができるのではないだろうか。 |
| 北 康利 作家 諸君1月号 平成18年度 ・昭和21年8月に日本国憲法を帝国議会の両院で採択した際、GHQに憲法を押し付けられた無念さに、議場には無数のすすり泣きがもれたと言います。憲法草案の作成に携わった白洲次郎も、「白洲日記」と呼ばれる外務省文書に、「この敗戦最露出の憲法案は生る。『今に見ていろ」と言ふ気持ち抑え切れず。ひそかに涙す」と書き残しています。 ・福沢諭吉は自由主義を紹介するときに、「自由は不自由の中にあり」と言っています。つまり社会への貢献や義務、そういう不自由のうえに初めて自由があるのだと。⇒「権利や自由は義務とか責任を果たし、規律とか秩序を重視する人にのみ与えられる」 |
| 阿川尚之 慶應大学教授 諸君1月号 平成18年度 ・硬性憲法だから変えられないというのは間違いで、日本国憲法の憲法改正の条件は、国会での三分の二以上の発議と国民の過半数。アメリカ合衆国憲法はもっと硬くて、議会の三分の二の発議と四分の三の州の批准がなければ改正できません。それでもアメリカは1788年の発効以来、27回改正しているのですから、これは日本人の性格の問題ではないかという気がしますね。 |
| 兵頭二十八 軍学者 諸君1月号 平成19年度 ・日本の重武装と核軍備は、シナの間接侵略と対決できる立場を日本の外交当局者に与える為に必要である。そのためにはマッカーサー儀憲法を廃絶しなければならない。日本国は戦力を持たず戦わずと偽憲法に謳わせながら自衛隊を整備してフランスなどに並ぶ国防費を支出するようになった。これほどの露骨な言行不一致を半世紀も放置していて日本の政治家が世界から信用されるはずがどうしてあろうか。自由主義と公平が両立するための必須の要件は、公的な約束を守ることであり、すなわち偽憲法のような嘘を国民の代表が認めないことである。 ・シナ人の要求は決してきくべきではない。否、シナ人と付き合おうなどと考えるのが大間違いだ。目下のエージェントにされるか嫌がらせを受けるか、進路は二つしかなくなる。 ・外国に自由を脅かされたときにも戦わないという、かってフィリピン人がアメリカの征服者から押し付けられたような反市民的な偽憲法を朝夕唱えて有り難がっている限りは、外交当路の政治家がいくら志操堅固たらんと欲しても、肝心の軍隊による報復が不能と分かっており、まして核兵器は持てまいと見透かされて、政治家の外交テーブルでの迫力は無いに等しい。そこへシナ政府からの組織的な翻弄を受ければ、多くの政治家と官僚は、シナのエージェントとされるか、他のシナのエージェントから嵌められて不遇をかこつか、どちらかしかない。マッカーサー偽憲法がある限り、日本はシナの間接侵略を防ぐことはできない。 ・北朝鮮の相手をするのも自衛隊ではなく政治家だ。パチンコ賭博を取り締まり、破防法を朝鮮総連に適用していたら、北朝鮮は必要な資金は得られず、核武装できなかった。むかし自衛隊で初歩的な通信士として暗号と無線の世界を垣間見たわずかな経験から大胆に推測させてもらうが、日本の警察は、北朝鮮から国内工作員への無線指令などは、はじめから全部、傍受し、解読したいたろう。警察は、70年代以後の拉致事件のほとんどを、二ア・リアルタイムで把握していた。政治家に報告されていた。だが、政治家が動かなかった。偽憲法下で、与野党ともにエージェント工作を受けていたのだ。 |
| 慶野義雄 平成国際大学教授 諸君 平成19年1月号 《立憲主義の意味》 ・近代立憲主義の原則として、立法、行政、司法の所謂三権分立が有名であるが、宮中・府中の別、司法権の独立、統帥権の独立(この言葉は、本来は、軍が政治権力の配下に服し私物化されることを防ぐことを意味する)など、権力の集中を排し、諸勢力が健全な関係を保たなければならない。 政治と宗教の関係についていえば、特定教団が政治を支配し、あるいは政治に不当な介入をさせないとともに、政治が節度を守り、宗教に不当に干渉しないことが肝要である。また、立憲主義は、政治あるいは権力が、歴史観、宗教、学問、教育など、精神文化に介入しないという思想でもある。 《個人の価値観と共通の価値観》 ・近代立憲国家においては、政治と宗教の関係は、「政教分離」、「祭政一致」、「祭政分立」の三つの原則を満たしていなければならない。 「政教分離」と「祭政一致」は、一見矛盾するように見えるが、前者が宗教の「私的領域に関する原則」であるのに対し、後者は宗教の「公的領域、国民統合に関わる領域」についての原則である。また、「祭政一致」と「祭政分立」一見矛盾するように見えるが、「祭政一致」が、政治と宗教が「一定の関係を持たざるを得ない」ことを示すのに対し、「祭政分立」とは、政治と宗教が関わる場合の「節度についての原則」である。 幼稚な政教関係の理論は、欧米立憲国家が政治と宗教を厳格に分離しており、それが民主主義の基礎であるという。しかし、ロバート・ペラーなど優れた社会学者が喝破したように、分離しているように見えるのは、宗教の「私的領域」のみであって、いずれの国家にも、建国の理想と国家の統合に関わる「公的な宗教領域」があり、その部分に関しては、政治あるいは国家と宗教は不可分の関係を保っている。ペラーはそれを公民宗教(市民宗教)と名づける。 |
| 荒木和博 拓殖大学教授 「内なる敵を乗り越えて、戦う日本へ」 草思社 ・「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうとした」国もなければ、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄」したという国はない。その素振りさえないのである。(中略)このことから、現行憲法を制定した目的がどこにあったかは火を見るよりも明らかだ。 ・現行憲法第一章は天皇について書かれており、第一条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とされている。 この条文から言えば、天皇は最大限に尊重されねばならないはずなのだが、「護憲」派は皇室の存在に対して、きわめて敵対的である。いまだに「憲法を守って」と繰返す共産党の綱領には次のように書かれている。 「党は、一人の個人が世襲で『国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場にたつ。天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである」 これは明らかに改憲を前提としたものである。だから共産党の言う護憲は、要は偽装戦術にすぎないということだ。 |
| 志方尚之 帝京大学教授 WILL 平成19年1月号 ・世界も国民も軍隊と言った方が安心するでしょう。こんなすごい軍隊を軍隊と言わないんですから、信頼されませんよ。だから憲法を改正したほうがいい。改正しないと疑われます。 ・軍事占領が終わった時点で憲法を変えなかったのがおかしい。 ・外国からみて、こんなにも言っていることとやっていることが違う国はない。世界有数の軍隊をもっていて、「軍隊を持っていない」というのだから、日本を心から信頼できない、怖いと言いますよ。 ここでやはり改憲して、「かくかくしかじかの軍事力を持つ」と書いた方が、日本はまともに見られるでしょう。 ・護憲派のデメリットは国際社会に対して嘘をついていることです。 ----------------------------------------------------- ◆ ------------------------------------------------------------ 「正論」(産経新聞 平成19年5月15日) <「自主憲法」論はご法度か> ・護憲派の多くは日米防衛協力に反対で、米国離れの自主的な日本をと主張しているのだが、自主憲法を唱えることだけはご法度だというのだから笑止千版である。また、立憲の理念は時代の変化に影響されない崇高なものだから、戦略環境が変わっても改憲してはならないと主張する。 ・一世を風靡したマルクス・レーニン主義は、その後できた多くの共産主義国家にとって立憲の精神そのものだった。しかし、それらは時代とともにそのほとんどが改正された。家元の旧ソ連憲法も、1993年に改正されロシア新憲法となった。このように制定した時点で国民が受け入れた憲法でも、時代の変化とともに改正されるのは歴史の現実である。まして我が国の現行憲法は、占領軍が提示したものに何とか微修正を加えさせてもらって成立したものだから、ある時点で見直すのは当然だ。 ・軍隊が軍隊であることが悪いのではない。悪いのは軍隊を軍隊ではないと言いくるめることであって、国際社会はそんな変な国を国連安保理の常任理事国に推すとは到底思えない。 <同盟に限界あるのは当然> ・日米同盟は「かけがえのない」といっても、米国が自国の国益を最優先に考えて幾つかの戦略的・戦術的な対応を取ることは、当然で何の不思議もない。 我が国が米国の国益を守る為に諸肌を脱がないのと同じだ。国益がほぼ合致したときにのみ同盟は力を発揮するのであって、それが同盟の限界であり国際政治の現実だ。 <核の傘の実効性を高めよ> ・核の傘があっても、直ちに核によって反撃されることの実効性が不確かな場合もあり、信頼度を高めるため多方面での努力を惜しむべきではない。非核三原則を二原則にするとともに、早急に弾道ミサイル早期警戒能力や敵地攻撃能力の整備は急ぐべきだ。 護憲派の多くは、自主を標榜しながら、米国の核の傘を万全と信ずる不思議な思考の持ち主である。 ・護憲派の多くは核の問題となると核廃絶を唱えて現実から逃避するのが常である。理想主義は現実から出発しなければならない。 ----------------------------------------------------- ◆ ------------------------------------------------------------ 「別冊正論 06」 「無防備国家の法体系」 <現行憲法では国民の安全は護れない> ・現行憲法に「書いてある」通り行ったら、国家と国民の安全を保障することが「行えない」。 <現行憲法には前文には二つの大きい問題がある> ・軍事占領が解かれ、我が国が独立した後の時代には勝手に「決意」するだけでは安全は守れない。(中略)両国の国益がほぼ重なっているのなら、共同して対処しょうというのが日米防衛協力であり、それが日米安保体制の限界なのである。第二の問題は、国際社会に置いて名誉ある地位を占めるために、われわれは何をすべきかが書いていない。 理想に反して、我が国の安全を脅かす事態が惹き起こされた場合、敢然と主権と国民の安全を護る意志があること、そしてそのための能力を保有することを明記しなければならない。 また、国際社会で起きた緊急事態にあって、我が国の国益を護る為に必要とあれば、事態を収拾するために行われる国際社会の対応に、我が国も積極的に参加して「名誉ある地位を占める」必要がある。 もうひとつ言わせて貰えば、前文全体を日本固有の歴史や文化など「美しい日本」を感じさせる格調あるものにしなければならない。 <これまで国民投票法を作らなかった怠慢> <憲法を制定するのは法か力か> <憲法で明確にすべき集団的自衛権の行使> <憲法と絡む敵地攻撃能力の整備と秘密保護の強化> 第一は、自衛隊に「敵地攻撃能力」を持たせることであり、第二は、秘密保護を強化する法体系の整備である。 |
| 田村重信(自民党 政調会主席専門員) 「新憲法はこうなる」 講談社 ・「逆境のときも、順調にいったときも、変わらない心構えを保つことができること」、それが品格である。 ・「私が生まれた祖国においては、仏教を七世紀以来信仰し、そして仏教をあらゆる価値観の基準にして、すべての法のもとを仏教の思想、そしてその仏教の思想、すなわち生命の尊重を願って、そして他に危害を加えない平和を一方的に信じてきたんですけれども、やはり、残念ながら、其の平和な生活は一方的に侵略され、そして固有の価値観を否定され、約六百万人のうちの五分の一の人たちがその尊い命を奪われました。 これに対して、国連の一つの機関である国際司法裁判所は、これを大量虐殺である、ジェノサイドであるということを判定し、そして他方に対して批判をしました。また、国連の総会においても、三回にわたって(基本的人権の尊重と即時撤退の)決議をされましたけれども、これらの決議も、そして国際司法裁判所の判決も、何らかの救済にならなかったということを考えてみますと、残念ながら、今の国際社会ということは、あくまでも力、あるいは、残念ながらその武力、あるいは既成事実をつくることによって行われているということが現実だろうと思います。(ペマ・ギャルポ桐蔭横浜大学法学部教授) 《無力化政策ー3R、5D、3S》 ・@Revenge(復讐)、AReform(改良)、BRevive(復活) ・@Disarmament(武装解除)、ADemilitarization(非軍事化)、BDisindustrialization(産業空洞化)、CDecentralization(中心的勢力の解体)、DDemocratization(民主化) ・@Sports(スポーツ)、ASex(性解放)、BScreen(映画) ・戦前日本の美風良俗は封建的ということばで十把ひとからげにされ、廃棄された。 ・「日本人は、(中略)占領時期、戦勝国の弱体化工作に洗脳され、精神的に去勢された。自分が奴隷であるのを知らないのが本当の奴隷だという。日本人がまさにそれである。非武装平和、人権尊重、戦争反対、非核三原則はたしかに正しい。だが相手がそれを守らないかぎり、つまり双務的でない一方的原則堅持とは、あまりにも現実離れした錯覚だ。砂に顔を突っ込んでいれば敵からも見えないという思う独りよがりである」 ・「かっての戦争は日本が仕掛けたから起きた。だから、日本が戦争を仕掛けなければ、世界は平和だ」⇒ウソである。 ・戦後日本の安全保障は、在日米軍基地に負うことが大きい。 ・「観光立国スイスでは、防衛に国民が熱心で、国民全員が収容できるシェルターに加えて海外の観光客も収容できるシェルターのスペースがあるとの話である。 だからこそ、世界のさまざまな国際機関が存在し、世界中の大富豪が安心してお金を貯金できるわけだ。そして、秘密は守ってくれる。スイスを見れば、いかに安全が重要であるかがわかる。非武装では、決して安全が確保されないのが世界の現実である。 ・「君主と人民との対立は西洋諸国のことで、日本では君主である天皇と人民とが一体をなしていて、すこしも対立することはないといわれるが、かりにいままではそうであったとしても、それは日本人がいままで君主主義のもとに封建と専制にならされ、自我の自覚も個性の意識もなく、自由の価値も平等の観念も理解しなかったことによる」(横田喜三郎著 「天皇制」 ミュージアム図書、1997年)⇒これで東大教授、お粗末極まりない頭の中だ。 ・渋沢栄一は「道徳と経済の一致」を実践した。 ・元首の概念は、極めて曖昧なもので、国を代表する地位と権限を有し、実際にその権限を行使するものが元首という考え方もあれば、名目的には国を代表する地位と権限を有するが、実際には行使しないという説もあり、さらには、名目的にも限られた権限しか有しないものという説もあります。 ただし一般的には、「国を対外的に代表する者」を指し、アメリカ、ロシア、ドイツでは大統領、イギリスでは王(現在は女王)がそれに当たります。 日本では、歴史的に見ると、天皇が政治的に実権を握っていたのは、大化の改新と建武の中興の約60年間、そして大政奉還以降の約80年間に過ぎず、その他の大部分は政治の実権は藤原氏、源平二氏、北条氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏といった実力者が握り、その間の天皇の地位は、彼らを超越した存在でした。 ・そもそも自衛権には、個別的自衛権と集団的自衛権の二つの概念が含まれており、別物として扱うのは、日本ぐらいなのです。 ・戦後、個人主義は、利己主義へと変質してしまった。⇒「責任」とか「義務」、「公の精神」を教えないのだから、当然である。 ・国民は主体だけでなく客体でもある。⇒主体と考えると国家=権力=悪となる。 《憲法九条を守る会》 ・中村哲(医師)、・美輪明宏(タレント)、・香山リカ(精神科医)、・吉永小百合(女優)、・姜尚中(東大教授)、・松本侑子(作家)、・井筒和幸(映画監督)、・辛酸なめ子(漫画家)、・ピーコ(タレント)、・猿谷要(東京女子大学名誉教授)、・井上ひさし(作家)、・半藤一利(戦史研究家)、・森永卓郎(獨協大学教授)、・渡辺えり子(女優)、・黒柳徹子(タレント)、・品川正治(経済同友会終身幹事)。 「私利私欲と争い、善をもって悪に克たなければならず、徳を修めて立派な人になろうとするには、終始争いを避けるわけにはいかない。品性の向上は、悪と相争うことによってはじめて遂げられるものである。絶対に円満であって、悪とも争わず、己に克とうとする心がけさえなくなってしまったならば、人の品性は堕落する一方である。だから品性の向上、社会の進歩、国家発展の上にも、争いはけっして避けてはいけない。 私は世間の人から、絶対に争いをしない人間のように見られているが、もとより好んで人と争うことこそしないものの、絶対に争わないのが処世上最善の道とは思っていない。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に負けるようになる。私は大した人間ではないが、正しい道を踏んで一歩も曲げないつもりでいるから、無法に譲歩するということはできない」 「人には老いたときと若いときとの別なく、いつも守るべき主張がなければならない。そうでなければ人の一生は、まったく無意味なものになってしまう。いかに人が円満がよいと言っても、あまりに柔弱になりすぎては、『論語』「先進篇」に説かれている通りで、人としてまったく気力も品位もないものになってしまう」(渋沢栄一著 『孔子ー人間、どこまで大きくなれえるか』 三笠書房、1996年) |
| 佐々淳行 初代内閣安全室長 正論3月号 平成19年度 ・憲法第65条は、「行政権は内閣に属する」として三権分立の大原則を定めているが、第66条は「内閣総理大臣」ではなくて合議体である「内閣」にそれを委ね、しかも同条第三項で「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」と規定し、「満場一致の閣議決定」を行政の最高意思決定機関と定めている。 内閣法第4条は「内閣がその職権を行うのは閣議によるものとする」とし、内閣総理大臣は近年の改正で「発議権」こそ与えられたものの「閣議の主宰者」に位置付けられ、同第6条「閣議にかけて決定した方針に基づいて行政各部を指揮監督する」とされていて、トップダウンの指揮命令権はない。さらに第7条は、省庁間の権限争議についても「閣議にかけてこれを裁定する」となっており、官房長官の「調整権」も消極的調整権との有権解釈になっているので、閣内不統一で「満場一致」にならないと、総理は憲法第68条1項の閣僚任命権、同2項の任意の閣僚罷免権を行使して、反対する閣僚のクビのすげ替えからやらなくてはならない。分秒を争う重大緊急事態対処がこれでは、国民の身体・生命・財産を守らなければならない国家危機管理は、できない。 マッカーサー法体系は、マッカーサー元帥だけの責任ではない。日本の各界指導者層もこれを是とし、今日まで60年間存続させてきたのだ。危機に直面している今こそ、その改廃が必要なのだ。霞ヶ関、永田町よりも早く、賢明な日本国民がこのことに目覚め始めている。 |
| 櫻井よしこ ジャーナリスト 正論11月号 平成16年 ・現行憲法が体現している価値観は、その起草者であるアメリカでさえももう非現実的であるとして、とうの昔に改革を加えているわけです。日本だけがバーチャルな世界に取り残されてきたわけです。その結果として、日本人が精神的に成長をし得なかった事実は悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。今、どの世論調査を見ても憲法改正は多数派となりました。本来の自民党らしさを発揮して、果敢に憲法改正に挑んで欲しいと思います。⇒第9条に関して言えば、一回目めは朝鮮戦争の時に、その後北朝鮮の核・拉致問題、イラク派兵はどうにか切り抜けたものの、二回目は国連の常任理事国入り申請の時に、アメリカから憲法9条の改正の必要性を指摘される程で決定的に出ていた。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「諸君6月号 平成17年度」 ・マッカ―サーの指示したのは次のような内容だった。 「国家主権の発動としての戦争は、廃止される。日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する。日本は、その防衛と保全とを、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を維持する機能は、将来ともに許可されることがなく、日本軍に交戦権が与えられることもない」 「自国の安全を維持する手段としての戦争をも放棄する」には民生局でさえ驚いた。一切の自衛を認めない、無論、武力も認めないということは、侵略を受けたが最後、座して耐え、耐え切れなかったら侵略者に隷属せよ、もしくは滅びよということだ。 マッカーサーはそのような事態が発生しないことの担保として「今や世界を動かしつつある崇高な理想」を掲げた。「恒久の平和」や「人間相互の関係を支配する崇高な理想」を掲げようと日本に強いたマッカーサーとGHQが、しかし、日本を一方的に裁いた極東軍事裁判でA級戦犯とされた25名全員を有罪とし、内、東条英機首相ら7名を絞首刑にしたのは周知のとおりだ。そしてもうひとつ、当時のマッカーサーはじめ戦勝国の日本に対する感情が表現されていたのが、絞首刑執行の日である。それは昭和23年12月23日、時の皇太子、現天皇陛下の誕生日にぶつけて行われた。その背景には言葉につくせない日本への憎しみが込められていたと思う。 憲法9条は結局、マッカーサーの原案より少しばかり改善された。しかし、憲法を政治的に解釈して運用しなければ国の防衛もままならない状況に陥ったのは周知のとおりである。現在の良好な日米関係の半世紀余の過去にはこうして諸々のことがあったことを、今更ではあるが、指摘しておきたい、。拭い切れないこうした想いは、一度、キッパリと断ち切ったほうが、日米双方のためによい。断ち切るための象徴的な行動が、米国が当初日本の生存権をも抹殺しょうとした現憲法の根本的な作り直しである。憲法改正には、その中身の改正の必要性に加えて、成立にまつわる一連の事情こそを、戦後日本を見つめ直す理由として軽視してはならない。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「諸君10月号 平成17年度」 ・戦後の日本の政治には大きくわけて、二種類のテーマがあったと思います。一つは高度成長で得た国富を分配すること。そしてもう一つは、日本という国家をどのように形づくっていくかにかかわる問題です。その最たるものは憲法で、他にも外交、安全保障、教育などが挙げられます。日本国にとって、前者と後者のどちらがより本質的なテーマかは明らかでしょう。 ・日本人が国家というものを考えなくなったことにあります。少し大げさかもしれませんが、「日本人から国家意識を取り去ろうとしたGHQの占領政策が、半世紀以上すぎて、今、まさに実現されているのではないか」という背筋の寒い思いすらします。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「憲法改正を発議する SAPIO 10/26 平成17年度」 ・改正が必要な最大の理由の一つは、自衛権が明確にされていないことである。国連憲章は、その2条で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇叉は武力の行使を、いかなる国の領土保全叉は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」としている。つまり、加盟国に対して国際紛争を平和的手段によって解決することを求め、そのためには侵略戦争はもちろん、武力による威嚇または武力の行使をも禁止すると定めているわけだ。 しかし、冒頭で触れたように、国連憲章はその51条で「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的叉は集団的自衛に固有の権利を害するものではない」とも規定している。国連は「個別的自衛権」のみならず、「集団的自衛権」も「固有の権利」としているのだ。⇒日本の左翼は国連尊重を叫ぶくせに、「集団的自衛権」となると全く認めない。この一点だけでもエセ集団であることがわかる(真中) 日本国憲法9条は具体的にどのように変えるべきだろうか。 単に2項を削除するだけでいいとする意見もある。軍事力を持つことや集団的自衛権があることなどは、全ての主権国家にとって当然のことであるから書き込む必要さえないという立場で考えれば、もっともだ。 だが、日本は「不幸にも戦後60年の間に主権国家であることも、また主権国家がもともとどのような権利を、自然権のような形で持っているかも、半ば以上忘れてきた。そのことを考えれば、具体的に日本の持つ権利や目指すべき価値観を書き込むのもよいだろう。そこで、まず日本が「世界の自由と民主主義のために積極的に国際貢献し、平和の実現に尽力する」ことを明確にすることを提案したい。日本が本当に守るべきものは、21世紀の人類の普遍的な価値観としての自由と民主主義であり、そのためには、経済、政治、軍事の全ての面で日本は力を発揮すると謳うことだ。その決意が日本の繁栄をもたらすのであり、アジア諸国も世界も求めているものだ。この決意は、憲法の前文に入れるか、叉は9条に入れるとしたら、現行の1項に替えて、これを1項に入れてもよいのではないか。 更に2項で「侵略から我国を守り、国家の平和と独立、並びに国民の安全を確保するために自衛群を保持する」ことを明記し、3項で現行の1項の精神を反映する「侵略戦争を行わない」ことを明記すればいい。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「憲法改正を発議する SAPIO 1/25 平成18年度」 第七回 プライバシー権を制定するなら過剰な人権擁護にまず釘をさせ ・たとえば、人権擁護を謳いながら一般国民の人権を抑圧し、公権力や一部の団体の権利のみを擁護するかのような動きである。個人情報の保護を掲げながら、国民一人一人の情報を公権力が恣意的に管理・利用できるようにする動きでもある。たとえ不正を働いても、公権力の情報は一切国民に知らせないという動きのあることも忘れてはならない。 ・個々人がバラバラに権利を主張し、プライバシーを主張していくのが、日本人にふさわしい社会なのか。家族の絆を社会の基盤とするのか。人と人との絆を、私達は今一度考え、この社会をどのような共同体にしていきたいのかについて思いをめぐらし、その上で人権や個人情報、プライバシーのあり方についても日本社会にふさわしい形で憲法や法令のなかで整理していくべきであると考える。 日本という共同体が「人権擁護」や「個人情報の保護」の美名のもとに、公権力が情報統制によって事実上の支配者となり、国民の上に君臨したり、一部の圧力団体によって、言論・表現の自由が蔑ろにされる社会になってはいけない。 そのためにも自由と民主主義の根幹である「言論・表現の自由」の重要性を憲法に歯切れよく刻まなければならない。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「産経新聞 平成17年10月13日(木)」 ・現行憲法は、自由と権利を謳いあげつつ、それらを真に価値あるものとなす責任と義務を切り捨てた。国民一人一人を個人として尊い存在だとしつつ、その個人を育んだ家族の役割を否定した。 権利と自由のみで育てられた結果、他者への依存を特徴とする多数の個人が生まれた。その集合体としての日本は、自らの安全と生存を国際社会に依存する国家となった。 ・日清、日露戦争に勝った日本を、米国がどれほど警戒したか。日露戦争でのロシアの敗北から学んだ米国はパナマ運河の完成を急がせ、自国の海軍力の統合性を保つ体制を作った。その力はやがて日本を叩く力とjなっていく。警戒すべき日本に有力な同盟国をもたせてはならないとして、米国は中国と心を通じ、ワシントン海軍軍縮会議で日英同盟の破棄に成功した。 その時点から、1941年11月のハルノート、第二次世界大戦開戦まで、日本は不可逆の道を歩まざるを得なかった。日本はもがき、多くの間違いも犯しただろう。私たちは各々間違いを見詰めながらも日本が歴史の必然としてくぎり抜けざるを得なかった大潮流をこそ、見なければならない。 その作業をしたときはじめて、先人の懊悩を痛感し、なぜ、首相をはじめ日本人が靖国神社に心して参拝しなければならないかが、納得できるはずだ。またその時、戦前の日本の歩みを全否定する現行憲法を、1日も早く改正することが、どれほど重要な課題であるかも痛感するはずだ。 憲法改正は、日本人の心を見詰めなおす作業である。ハンチントンの言う日本一国のみの文明を築き、そのなかでいかに豊かで平和な国家を築いてきたかを、改めて心に刻みなおす作業と言ってもよい。その延長線上に、私たちの未来への夢を託すに値する国家の姿を描く作業が憲法改正だ。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「SAPIO 11/9」 ≪「権利・自由」強調の一方で「義務・責任」を軽視≫ それはある面で、日本人が家族の絆や人間に対する優しさ、思いやりに鈍感になってしまったことの結果であり、私はそこに現行憲法の影響を感じてしまう。 日本国憲法の第三章「国民の権利及び義務」をひもとくと、「権利及び義務」とされながらも、この章には自由と権利ばかりが書かれている。責任と義務はほとんど出てこない。数えてみると「権利」という言葉が16回、「自由」が9回、「責任」と「義務」は各々3回しか登場しない。各文言の登場回数から、日本国憲法が権利と自由を強調し、責任と義務を相対的に軽視しているのは明らかだ。 加えて気になるのが第13条だ。「すべて国民は、個人として尊重される」というこの規定に代表されるように、「個人」の尊重ばかりで、「家族」という言葉が一切でてこない。辛うじて第24条の婚姻の規定に「夫婦が同等の権利を有することを基本として・・・」と、夫婦という言葉が、たった一度出てくるのみだ。では、憲法のほかの部分に「家族」の役割や意義が書き込まれているのか。憲法の基本精神を記したはずの「前文」にも、本文にも、どこにもない。日本には個人は存在しても家族は存在しないかのようだ。家族が仲睦まじく暮らしてきた日本の姿は、国のあり方の根幹をなす憲法のなかから、消滅してしまったのだ。 戦前、家族関係を含め、そうした心の部分を教えていたのが「教育勅語」だった。占領下の日本には、占領軍が廃止を命ずる1948年6月まで、精神の糧としての「教育勅語」があった。 《朕惟フニ》で始まるために今では「悪しき帝国主義」の元凶のように扱われ、否定されがちだが、よく読むとそこには現代の日本人が忘れてしまっている素晴らしい心得が書かれている。 「父母二孝二」、「兄弟二友二」、「夫婦相和シ」、「朋友相信シ」、「恭倹己レヲ持シ」(慎み深く自分の心を引き締め)、「博愛衆二及ホシ」、「学ヲ修メ業ヲ習ヒ」、「智能を啓発シ」、「徳器ヲ成就シ」(立派な人格を形成し)、「進テ公益ヲ広メ」、「世務ヲ開キ」(世の中の勤めを果たし)、「常二国憲ヲ重シ国法二遵ヒ)と続く。 親兄弟、夫婦という、人間関係の基本から、国の法律の遵守までを「12の徳目」として列挙したものだ。極めて当たり前の内容である。当然の価値観だったこうした事柄を、明治政府は国民教育の基礎と位置付けていた。 ≪GHQ内でも分かれた「教育勅語」に対する評価≫ ・さらに教育勅語は「一旦緩急アレバ義勇公に奉シ・・・」と続く。教育勅語を否定する人は大概、ここから先の文言が軍国主義に直結しているという。しかし、万が一、国家に危急の事態が起こった時に国家・公共のために尽力するのは、国民としてあたりまえの勤めだ。それも「正義にかなった勇気を奮い起こして」と教えている。 教育勅語はその中で示した教えは「古今二通シテ謬ラス」「中外二施シテ悖ラス」ものであると説明した。教育勅語に書かれていることは、いつの時代にも、世界のどこでも通じる普遍的な価値観であり、時間という縦軸と世界という横軸がしっかりと意識されていることに、今更ながら感心する。 教育勅語はまた、天皇一人に対する忠誠心を目指したものであるかのように誤解されている。だが、その最後はこう掬ばれているー「朕璽臣民ト倶二拳拳服膺シテ威其徳ヲ一二センコトヲ来庶幾フ」と。 ・「あたらしく制定された憲法をもとに民法学者たちが民法を改正した。そこで戦前の家族制度を全面的に否定するような大きな変化が生じてしまったのです。当たり前のこととして憲法から削られた『家族は社会の基礎』という考え方が、新しい民法で否定されてしまった。第四篇の親族、第五編の相続あたりは、要するに家族制を否定した立場に立ってつくられているのです」 ≪父親の役割が大きかった江戸時代の子育て≫ 江戸時代には、子育てに関する本も数多く出版されていた。例えば貝原益軒は「総論」「隋年教法」「読書法」「手習い法」「教女子法」の5巻からなる「和俗童子訓」を書き、読み書きの教えから、何をどう教えるかまで具体的に記している。その「総論」のなかで、貝原益軒はこう言うのだ。 「婦人や無学の人は少児を愛する道を知らず、姑息に愛するだけで、ただおいしい物をたくさん食べさせ、よい衣類を暖かく着せ、その子のしたいようにさせるのを、その子を愛することだと思い、それが子の成長を損なうことを知らない」(「江戸の子育て」中江知恵著、文春新書)現在の親こそ耳を傾けるべき、的を得た言葉だ。 ある意味で、明治という時代も江戸時代までの日本を全否定して始まった。明治維新によって新政府ができると、1872年(明治5)年の学制発布、そして1879(明治12)年の教育令による義務教育の導入によって、教育の主体は家庭から国家へと移された。もちろん明治政府が義務教育制度をつくったのは善意からで、農村などで子供たちが労働力として使われ、教育を受ける機会のない子供がまだまだ多くいたからである。 長い目で見れば教育を家庭から国家へと移したことは間違いなく、そのことで江戸時代の良き一面を壊したことは確かだろう。だが、それは押し寄せる海外列挙に対抗できる国づくりのためには仕方のなかった面もあり、だからこそ明治の時代は『教育勅語』によって孝行や忠義などの大切さを担保したのである。⇒戦前の良さを担保するものが何もない! ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「週刊新潮」2007.5.24 ・マッカーサーが作らせた現行憲法は、国家の継続性とも日本の価値観とも無関係だ。むしろ、日本的価値の全てと長き文明の流れをバッサリ切り捨てた。現行憲法は、真の意味で、日本人の憲法ではないのだ。だからこそ、改正が必要なのである。⇒十七条憲法、五箇条のご誓文、明治憲法の伝統を無視している。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- 「別冊正論 06」 ・戦後私達に教えられてきた価値観は、日本は日中戦争と第二次世界大戦の加害者であるというものだ。したがって、日本は一人前の国家としてのまともな主張は遠慮すべきで、ひたすら国際社会に対し謝罪しなければならないというものだった。そのように考えるところから、アメリカへの“依存”や中国への“屈服”が始まる。 ・戦後60年、民主主義を是とする諸国では、情報公開によって、多くの情報が開示され始めた。それら一次資料を駆使して書かれた『マオ』(ユン・チャン、ジョン・ハリディ 講談社)には、1928年の張作霖爆殺はソ連の仕業であり、1937年の盧溝橋事件以後の日中全面戦争への広がりは、関東軍の暴走ではなく、周恩来が蒋介石の下に送り込んだ中国共産党のスパイ、張治中の仕業だったと生々しく記されている。日中戦争も第二次世界大戦の、決して“邪悪な日本”の邪悪な関東軍が一人で仕掛けたものではなかったことが明らかにされている。そうであれば、日本はハンディキャップ国家である必要もない。靖国神社参拝が無用な不信感の源となるべくもない。 ・私達の国、日本はなぜ、もっと賢くなれないのか。なぜ、信念を持ち、その信念を曲げない強さを発揮できないのか。なぜ、もっと誇り高く、美しく振る舞うことができないのか。自国の統治の仕方や自国の歴史について、国益や事実を無視した他国の意向が反映されるとしたら、もはや日本は独立国ではない。そのような現状をどこから変えていけばよいのか。そう問うとき、どうしても元凶として思い至るのが日本国憲法である。 ・自分はどうありたいか、何をすべきかというよりも、他人にどう見られるかのほうが大事なのが見て取れる。結果として、自分自身と向き合うこと、自己認識が苦手なわりにまわりの目を気にするようになる。このことは、国としての目標を達成するよりも、周囲との摩擦回避を最優先にしてきた戦後日本のあり様と重なるのではないか。 ・最も大切なこととして「友人関係」を選び、「クラスの皆に好かれたい」と願いながらも、困難に陥った友人を必ず助けるというわけでもない日本の高校生の姿が浮かんでくる。 ・日本の高校生はなぜ、他の三ヶ国の高校生に比べてこうも人生全般に対する意欲に欠けるのか。まるで栄養不足のようにエネルギーに欠けがちで、自分の人生を自分の手で切り拓いていこうという意欲が、なぜ薄いのか。私には、それは彼らひとりひとりの責任というよりも、この国の大人たちの大半が根源的な力を欠いていることが招いた現象だと思えてならない。根源的な力の欠如は、自分はいったい何者なのかという意識の欠如であると同時に、人が人との関わりにおいて生きる存在である以上、自分が生まれてきたこの国、このふるさと、この家庭についての想い、哀惜の欠如といってもよいだろう。 ・お金はあくまで手段であり、それが人生の目的であってはならないことを、これまでの日本人はわきまえていた。その節度は、“痩せ我慢”かもしれない。しかし、その痩せ我慢こそが、人であれ国家であれ、真に強く、品格ある振る舞いを可能にする。誇りある社会や個人にとって、それは確実に必要な価値観だと私は思う。 ・戦後の日本人が失ったものを指折れば切りがないかもしれないが、最大のものは、日本人としての志、心意気である。 ・かって初代米国総領事として来航したタウンゼント・ハリスは、『日本滞在記』(坂田精一訳、岩波文庫)にこう記した。 「彼ら(日本人)は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もないーこれが恐らく人民の本当の幸福というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す」⇒「質素」「もったいない」「正直」。 ----------------------------------------------------- ◆ ---------------------------------------------------------- (「週刊新潮」2007.5.31) <もっと闊達にしたい改憲論議> 憲法改正の第一歩、「国民投票法」を読むと、改正案の発議には、衆議院では「議員100人以上」、参議院では「議員50人以上」の賛成が要件だと書かれている。各党が党毎にまとまると仮定しても、右の条件を満たすのは、自民党と民主党にとどまる。公明党以下他の全政党は、改正案を発議できないのだ。 <政官攻防の歴史> ・個々の政治家に発議権を与えたくない官僚の企みにも思える。 ・黒田の演説は「超然主義」という言葉を生んだ。それは統治者は政党や政治家に左右されてはならないということに尽き、国政の統治者は官僚であるということだ。政治は政治家にまかせてはならず、天皇の官僚たちが統治すればよいという官僚至上主義、官僚中心主義である。 ・「明治憲法第54条に政府委員制度が規定されています。政府委員は即ち官僚のことです。国務大臣と政府委員は随時、国会に出席し、発言し得る、とされ、彼らは、大臣と同格の地位を与えられているのです。議会誕生以前から統治に関わってきた彼らは、あらゆる意味で、選挙によって選ばれた政治家よりも統治の詳細について知っていたのです」 <官僚支配の改憲を許すな> ・ところが、官僚たちは蘇ったのだ。国会法第69条第2項で“内閣は、国会において国務大臣を補佐するため、両議院の議長の承認を得て政府委員を任命することができる”旨、定めるのに成功した。 ・「かっては国会で質問された大臣が『それは大変重要な問題なので政府委員に答弁させます』などと答えるケースもあったのです。1〜2年で交代する大臣が官僚に頼らざるを得ない状況はありますが、それにしても、重要ごとは官僚に任せるという考え方が伝統的に根強かったのです」 ・「国家のあるべき姿を求めるよりも摩擦の少ない平均値を求める官僚主義の排除にもつながることを期待するのである。 |
| 日下公人 評論家・日本財団特別顧問 「別冊正論 06」 ・普遍主義の亡者になってはいけないということである。ローカリズムでよい。そして一国の憲法とは普遍的な人類の理想を追求するものである必要はなく、そこに暮らす人間のローカリズムに根ざした価値観、歴史的な慣習や常識に照らしていくればよい。そこに立ち返ったとき、日本は自らを守る当然の力を持つと同時に、もっと自由で豊かな国になれるだろうと私は思っている。 |
| 桶谷秀昭 文芸評論家 「別冊正論 06」 「我々の必然としての『廃憲』」 私の結論は、現行憲法を廃棄し、明治憲法に立ち帰り、これを原典として文体をも含めて適宜改変をおこなひ、新日本憲法をつくる、といふものである。 現俸憲法の廃棄理由を、本文の補足を含めて、念のため箇条書きに整理する。 (一)現行憲法は、その成立過程に置いて、日本人の自由意志が、いかなる意味に置いても存在しなかった。 (二)現行憲法は、その起草において、日本語の発想と文章ではない。連合軍総司令部が起草した英文の逐語的和訳文である。 (三)現行憲法は、「前文」を含む内容の総体として、自立した主権国家をめざすものではなく、保護国に安んじようとするものである。たとえば本文第9条「国の交戦権は、これを認めない。」といふのは、絶対平和の思想に立脚するものではなく、国の主権を自ら否定して、他国の善意にゆだねようとするものである。したがって、第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は主権の存する日本国民の総意に基く。」に規定されてゐる、国民に源泉をもつ「主権」といふ概念を無意味にする。因みに、「主権」の辞書的意味は、「いかなる制約も受けない、国家統治の最高権力」であるが、その具体的機能は、交戦権のことである。 (四)現行憲法は、その発生事情において、国際法に違反する。たとえば、ハーグ「陸戦の法規慣例に関する条約」の付属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」第43条「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は占領者は絶対的の支障なき限り占領地の現行法を尊重して成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為施し得べき一切の手段をつくすべし」に違反する。 (五)現行憲法は、その成立過程において、歴史的偽造を行ってゐる。すなはち、帝国憲法第73条「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」の手続き規定につじつまを合はせるために、昭和天皇に願って、次の勅語を下付していただいた。 「朕は日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしむる。御名御璽 昭和21年11月3日」 |
| 東谷 暁 ジャーナリスト 「別冊正論 06」 「憲法改正論の『腐食』、独立自尊泣き『自主憲法』」 ・ニーチェが論じているのは、キリスト教文明にみられるように、強大な権力に対して屈服せざるを得ない者が、屈服を「善」であるかのように見なす「道徳体系」を作り上げてしまうという倒錯心理である。 したがって、自らが屈服を強いられた対象に向かって、関係を逆転させようとか、解消させようと思っている人間にルサンチマンは存在しない。 ・屈服は正しいと思い込んだ者、従属が善であると論じる者、惨めな現状も考えようで天国だという者にこそ、深刻なルサンチマンは見出せるのである。 ・今回の自民党の「新憲法草案」を主導したといわれる舛添要一氏は、朝日新聞の報道によれば、現行憲法が占領期において作られたことについて意外に冷静だという。「自民党の新憲法起草委員会事務局次長の舛添要一(58)は、最終案を自分のパソコンで書き上げた。安倍が5年以内に憲法を改正したい理由は、第一に現憲法が占領下につくられたから。だが、舛添は意外にクールである。『確かに国民が百%自由じゃなかったからね。でも、その程度。占領下だったけで、中身はよくできた憲法なんですよ』」(2007年3月12日付け朝日新聞夕刊) 朝日新聞のバイアスを考えても、舛添氏は議論の核心を取り違えているといわなくてはならない。現行憲法はさまざまな現代憲法を参考にしているから、法学的な整合性は比較的あるかもしれない。しかし、この憲法にきざまれた刻印は日本人にとってスティグマ(傷痕)であり、そこには従属という文字が浮かび上がっている。その現実を直視して過去の歴史に全面的な対決を試みる以外に、そのいまわしい傷痕の消えるときはないのである。(東谷 暁 ジャーナリスト 「別冊正論 06」) ----------------------------------------------------- ◇ -------------------------------------------------------------- 「正論」平成19年10月号 「寸鉄一閃」 <護憲論を布教するために9条幣原発案説を唱える立花隆氏> 幣原は「外交50年」で発案者が自分だと述べたが、この点については江藤淳氏の「1946年憲法ーその拘束」や、西修氏の「日本国憲法成立過程の研究」などが、マッカーサーの強い圧力と占領下の検閲があったことを指摘している。 たとえば、西修氏の同書によれば幣原と親交のあった柴崎隆は、幣原の言葉を次のように記している。《「この原稿も、僕の本心で書いているのではなく韓信が股をくぐる思いで書いているものだ。・・・・これは勝者の根深い猜疑と弾圧を和らげる悲しき手段の一つなのだ」》。 マッカーサーは、日本国憲法に交戦権放棄の第9条を入れたものの、朝鮮戦争が勃発して以後、幣原説を流布させることで米国内の批判をかわそうとした疑いが濃厚だ。これは読売新聞のスクープだが、50年11月にジャパン・タイムズ紙がGHQ民生局の文章を引用するさい、日本の交戦権放棄を最初に文書化した「マッカーサーノート」の第二原則に、「この考えは、最初に当時の幣原首相から最高司令官に表明され、司令官はただちにそれにつき心から支持を与えた」という断り書きを添付するよう要求されている。 また、西氏の聞き取り調査では、ホイットニー准将の後任で民生局長になったフランク・リゾーは、ホイットニーが9条の発案者を「アワー・オールドマン(=マッカーサー)」と語っていたのに、朝鮮戦争勃発後は急に「ユア・オールドマン(=幣原)」だと言うようになったという。 <日本国憲法の制定は占領下の権力構造を踏まえて考えるべきだ> <今回の自民党の敗北は背後にもっと根深い破壊がある> ・支持団体 ・マスコミ対策の失敗 |
| 和田秀樹 精神科医・国際医療福祉大学大学院教授 「別冊正論 06」 「何のための、誰の為の、改正であるべきか」 <国民の権利と義務とは何か> ・私が北朝鮮を恐れるに足りずと思う理由は、金正日もフセイン同様死ぬのが怖い人間だし、イスラム教のような宗教を持ち合わせておらず、国の為に死ねるという教育より、首領さまのために死ぬという教育だから、トップを殺せば戦争が終わるという旧来型の方程式が成り立つと考えられるからである。 |
| 佐藤健志 評論家 「正論別冊 06」 「幽閉された近代日本ー改憲は出口たりうるか」 「正論」平成20年7月号 ・「この憲法は占領軍によって強制されてものあると明示すべきであった。歴史上も事実を都合よくごまかしたところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるような時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪悪であると考える」(白州次郎 「占領を背負った男」 191頁) |
| 林 秀彦 作家・脚本家 「別冊正論 06」 「私が『談合憲法』誕生を切に祈る理由」 <日本人は自前では何も考えないのか> <進化論風に考えてみれば> <トクヴィルと福澤諭吉> <三度目の正直はできるか> <押し付けと間に合わせ> <生ヌル民族に最もフィットした憲法とは> |
| 早川勇郎 無職 川崎市麻生区 83歳 自衛隊は、小なりと言えども軍隊である。憲法を正直に読めば、これは持てない。かって日本の某政党の党首は「自衛隊は違憲である」と言った。この人は正直である。だが、この「平和の敵」憲法を守っていたのでは、日本人は不安でしょうがないから、屁理屈を考えだした。それは「自衛権がある」という理論である。 日本国憲法には、うるさいくらい、「権利々々」と書いてあるが、「国に自衛権あり」とは一言も書いていない。まさに屁理屈である。しかし、日本国民は自らの平和と安全の為に、この屁理屈を認めた。正直政党の反対論は黙殺した。 何故か。憲法第9条は「平和の敵」だからである。日本国民は、連合国とGHQの謀略に従うよりも、自らの安全と平和が大事だからである。 日本国は一刻も早く、この「平和の敵」憲法を追放して、自前の安心できる軍隊を持たねばならない。もちろん、アメリカとの友好は大事だし、日米同盟も大切である。しかし、自立した軍隊を持ってこそ初めて、軍事同盟も完全に機能するのである。(早川勇郎 無職 川崎市麻生区 83歳「正論」平成20年5月号) |
| 真中行造 HP管理者 ・日本の悲劇は二人の天才的詐欺師によって引き起こされている。すなわちルソーとマルクスである。「最初に個ありきではなく、最初に集団ありき」である。「人間は生まれながらにして平等ではなく、生まれたときには序列がある」のである。 ・社民党、共産党、全教、日教組、自治労と言えば、「進歩的知識人」の集まりで、新しいものを好む「革新(政党)」とばかり思っていたが、「憲法改正反対」「教育基本法改正反対」の動きを見ていると、どうも日本の場合はそうではないようだ。何故こんな古い「憲法」「教育基本法」が好きなのだろうか? 「憲法改正反対」「教育基本法改正反対」を叫ぶ彼らは、不思議と、「首相の靖国神社参拝反対」であり、「女性・女系天皇容認」であり、「東アジア共同体賛成」であり、「集団的自衛権反対」であり、「日本の核武装反対」である。 それもそのはず、彼らが憲法改正に反対するのは、日本の憲法が「コミュンテルン(共産主義)憲法」だからである。 |